写真 長篠・設楽原の戦いはいつだったのか、そもそもどんな戦いだったのかを確かめてみた。 設楽原合戦図 新城市立東郷東小学校卒業生制作 設楽原歴史資料館1.長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)の戦いはいつのことだったのか?確かめてみた。テレビや本などのメディアやインターネットの情報で見たり読んだりしたことがあるので知っています... 2023.05.25 写真城徳川家康歴史風景
写真 1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。 1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。長篠城址史跡保存館に長篠・設楽原で戦った将士の年齢一覧があったので興味深く見てきました。下の表は、将士の年齢をエクセルにまとめたもので... 2023.05.20 写真城徳川家康歴史
写真 写真:武田軍の三河侵入を防ぐための徳川方の拠点、長篠城の籠城戦では救援を家康に伝えるために命がけで城を脱出した鳥居強右衛門が主命を果たし城に戻る途中に武田方に捕えられて磔にされてしまいます。 武田軍を防ぐための徳川方の拠点、長篠城の籠城戦では救援を岡崎にいる家康に求めるために命がけで城を脱出した鳥居強右衛門が援軍の来ることを見届けて戻ってきたところを武田方に捕えられて磔にされてしまいます 2023.05.19 写真城徳川家康歴史風景
写真 写真:信玄包囲も定盈は籠城奮戦。2万7千の兵に包囲されながらも籠城。400の兵でひと月を持ちこたえた。信玄はここで鉄砲に撃たれ、しばらくして亡くなったと伝えられている。@新城市 信玄包囲も定盈籠城奮戦 2023.05.11 写真城徳川家康歴史
写真 写真:伊賀八幡宮は1470年に松平四代の松平親忠公が社(やしろ)を伊賀の国より三州額田郡井田村に移したことにはじまります。ピンチを乗り越えて勝利に導くパワースポットです。@岡崎市 伊賀八幡宮は、1470年に松平4代の松平親忠(ちかただ)公が松平家の氏神として、武運長久、子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀より三州額田郡井田村に移したのにはじまる。伊賀にちなんで伊賀八幡宮とよび、地名も伊賀と改めた。 2023.05.07 写真徳川家康神社風景
写真 写真:徳川家康も織田信長も豊臣秀吉も浅井長政もお市さまも茶々さま(淀殿)も見た伊吹山。 徳川家康も織田信長も豊臣秀吉も浅井長政もお市さまも、どのような思いをいだきながらこの伊吹山を見ていたのでしょうか。 2023.04.19 写真徳川家康風景
写真 苗木城遠山資料館は明治まで続いた苗木藩一万五百石の書庫そのものです。その資料が苗木遠山氏の始まりを教えてくれます。@中津川市 苗木城遠山資料館は明治まで続いた苗木藩一万五百石の書庫と蔵そのものです。その資料が苗木遠山氏の始まりを教えてくれます。 2023.03.12 写真徳川家康風景
写真 元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)は、幕府の命により赤穂義士が切腹した日です。大石内蔵助以下17名はここで切腹しました。 元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)は、幕府の命により赤穂義士が切腹した日です。大石内蔵助以下17名はここで切腹しました。ここは、幕府の指示により熊本藩御預けとなっていた大石良雄以下17人の赤穂義士が切腹した熊本藩細川家下... 2023.02.05 写真徳川家康風景
写真 隣松寺に仁王像を撮りに行ってきた。遠くに恵那山、御嶽山が、近くには猿投山が見えています。@豊田市 隣松寺仁王像に挨拶に行ってきた。遠くには恵那山、御嶽山が、近くには見慣れた猿投山が見えています。左の山が猿投山、白い建物の上に白い頂をほんの少し見せているのが御嶽山、右の高速道路の白い橋脚の向こうに見えるのが恵那山です。200年ほど前に、三河の田舎のそれも矢作川の後背湿地に都と天皇に関わりがある寺が建てられたのは驚きです 2022.12.28 写真徳川家康歴史神社
写真 写真:鳳来寺の紅葉2022年11月@奥三河 新城市 鳳来寺の2022年の紅葉はすでに冬枯れが進んでいる木も多く見かけます。その一方で真っ赤に染まっている木も多くあります。 2022.11.13 写真徳川家康神社
写真 写真:松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎ急速に勢力を拡大します。@豊田市 松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を相続し急速に勢力を拡大します。 2022.10.13 写真徳川家康神社
写真 写真:松平東照宮は徳川家康の祖、松平太郎左衛門の居館に古くからあった八幡宮の屋敷神でした。1619 年( 元和5 年) 家康を合祀し1965 年( 昭和40 年) 親氏を合祀しました。秋には境内のイチョウが美しく色づきます。@豊田市 1619 年( 元和5 年) 家康を合祀し1965 年( 昭和40 年) 親氏を合祀しました。秋には境内のイチョウが色づきます。居館跡だったので敵襲を防ぐために堀で守られています。石垣は江戸時代に整備されたものだそうですが、山を背にし前面に堀があります。 2022.10.11 写真徳川家康神社
写真 写真:信光明寺は松平3代信光創建の寺です。江戸時代に住職が将軍拝謁の道中に病み平癒を祈った芭蕉天神の加護により役目を果たします。帰国後自ら彫ったご神体を裏山に安置しそれが岩津天神となります。@岡崎市 信光明寺 2022.10.06 写真徳川家康神社
写真 写真:徳川四天王筆頭の酒井忠次は家康と先祖が同じ松平太郎左衛門親氏です。親氏は松平家に婿として入るよりも先に酒井家の婿に迎えられていてその時に酒井家の祖 酒井広親は生まれています。 徳川四天王のひとり酒井忠次は家康と同じ先祖だそうです。それは、豊田市の松平郷を支配していた松平太郎左衛門家の入婿になる前の遊行僧(だった時代の徳阿弥であり、後の松平親氏だったのです。 2022.10.05 写真徳川家康
写真 写真:岩津城は三河から尾張そして岡崎、濃尾平野の西の果てに見える滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山までを望む広大なエリアの東端に位置します。勢力拡大の野心を秘める松平2代泰親、3代信光にとって、軍事的な拠点としては申し分のない場所だったのです。 岩津城は三河から尾張そして岡崎、濃尾平野の西の果てに見える滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山までを望む広大なエリアの東端に位置します。勢力拡大の野心を秘める松平2代泰親、3代信光にとって、軍事的な拠点としては申し分のない場所だったのです。 2022.10.04 写真徳川家康
写真 写真:鳳来寺は1300年の山奥の古刹です。聖武天皇妃光明皇后、源頼朝、武田信玄、松平広忠、於大の方、徳川家康、井伊直政、奥平氏、菅沼氏、徳川家光などが関係した歴史ある寺です。@新城市 鳳来寺は1300年の古刹です。奥三河の山中の険しくそそり立つ溶岩の岩山にあって聖武天皇妃光明皇后、源頼朝、武田信玄、松平広忠、於大の方、徳川家康、井伊直政、奥平氏、菅沼氏などが関係したといわれる寺です。 2022.10.02 写真徳川家康神社
寺 法性寺の山門をくぐったら信玄が討たれたと伝わる場所があります。@新城市 カメラを手に持って法性寺(ほっしょうじ)の山門をくぐって先に進んだときに声が聞こえました。振り向くと観音様と目が合いました。 2022.09.23 寺徳川家康歴史
写真 写真:伊賀八幡宮の蓮の花が咲き始めました。というタイトルの記事をアップした一週間後に来てみた。期待は裏切られまだつぼみばかりです。 伊賀八幡宮の蓮の花が咲き始めました。というタイトルの記事をアップした一週間後にまた来てみました。期待は裏切られまだつぼみばかりでした。とは言っても、つぼみの数が明らかに増えています。一気に花が開きそうな気配を感じます。ただ、一週間待って花が開いている景色をイメージして撮りに来たので本音は残念な気持ちです。 2022.07.06 写真徳川家康神社