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写真 徳川家康 風景

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)は、幕府の命により赤穂義士が切腹した日です。大石内蔵助以下17名はここで切腹しました。

赤穂義士切腹の跡熊本藩下屋敷の一部
熊本藩預り赤穂義士切腹の場の跡

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)は、幕府の命により赤穂義士が切腹した日です。

大石内蔵助以下17名はここで切腹しました。

ここは、幕府の指示により熊本藩御預けとなっていた大石良雄以下17人の赤穂義士が切腹した熊本藩細川家下屋敷です。

ご存知のとおり寺坂吉右衛門を除く46人が、熊本藩細川家17人 松山藩久松松平家10人 長府藩毛利家10人 岡崎藩水野家9人に分かれて幕府から預けられており、そのままそこで切腹しました。

左側の英語訳のある東京都の教育委員会の説明板にはこのようにあります。

東京都指定旧蹟説明板

東京都指定旧跡

大石良雄外十六人忠烈の跡

所在地 港区高輪一の四、六~十六

標識 大正七年四月

指定 昭和三十年三月二十八日

 この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。

赤穂事件とは、元禄十四年(1701)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。

 当時の藩主五代綱利は、老中稲葉丹後守からの御預けの命を受けると、大目付仙谷伯耆守の屋敷に総勢八七五人の藩士と駕籠をを送り引渡しを受けます。

このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。

細川家は、大藩の威厳と見識をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。

 元禄十六年(1703)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べました。

切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。

平成二四年三月 建設

東京都教育委員会

右の壁面にはめ込まれた財団法人中央義士会と東京都教育委員会連名の石板には昂揚し心震えるそのままにこう刻まれています。

赤穂義士史跡碑説明石板

赤穂義士史跡碑

正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩みを停めよ

ここは徳川時代細川邸の跡 

実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である。

昭和三十五年三月二十日

財団法人 中央義士会

東京都教育委員会

また左側の壁面にはめ込まれた石板には自刃した十七名の義士の名が刻まれている。

切腹した義士17人の名前と年齢

自刃せる義士左の如し

 大石内蔵助 良雄 四五

 吉田忠左衛門 兼亮 六三

 原惣右衛門 元辰 五六

 片岡源五右衛門 高房 三七

 間瀬久大夫 正明 六三

 小野寺十内 秀和 六一

 間 喜兵衛 光延 六九

 礒貝十郎左衛門 正久 二五

 堀部彌兵衛 金丸 七七

 近松勘六 行重 三四

 富森助右衛門 正因 三四

 潮田又之丞 高教 三五

 早水藤左衛門 満尭 四○

 赤埴源蔵 重賢 三五

 奥田孫太夫 重盛 五七

 矢田五郎右衛門 助武 二九

 大石瀬左衛門 信清 二七

以上

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