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写真:谷汲山華厳寺の仁王像と門前町の桜祭り@岐阜県揖斐川郡

2024/4/15

西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)は、その山号と寺号は醍醐天皇より賜ったと伝えられています。 お寺の場所は、根尾川が山から濃尾平野に流れでる手前の西に位置しています。 その根尾川は濃尾平野にでて木曽三川(きそさんせん)のひとつ揖斐川(いびがわ)に合流します。木曽三川とは長良川、木曽川、揖斐川のことをこのように呼びます。 谷汲山華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られています。 春には桜、秋には紅葉の名所として多くの参拝者を集めま ...

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写真:壬申の乱で大海人皇子に破れた大友皇子の墓と伝わる古墳があります。@岡崎市

2024/4/10

壬申の乱(じんしんのらん・672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ)に破れた大友皇子(おおとものおうじ)の墓と伝わる古墳が岡崎市にあります。 壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の弟、大海人皇子と天智天皇の息子、大友皇子との戦いのことです。 近年では、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)が夫である大海人皇子(後の天智堪能)の皇位継承のために、近江を去り吉野でいの準備を行い、兄である天智天皇が亡くなった後に、兄の息子の大友皇子を討つことを説得したのではという説も有力になっているよ ...

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写真:満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市

2024/4/10

満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市 1500年前に迫害を避けてこの地(岐阜県本巣市根尾)に潜んでいた男大迹王(おほどのおおきみ)が継体天皇として即位するためにこの地を去るにあたり形見として植えられた桜です。 「身の代と残す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛(さか)へ止(とど)むる」。 歌まで添えられています。 継体天皇(男大迹王)は福井で育てられ、迫害を避けてこの地に隠れていました。 そういった歴史上の出来事を知る、やんごとなき桜の木です。 【PR】初心者も安心のサポート充実【DMM FX】 国指定天然記念物 根尾 ...

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写真:東山植物園桜の廻廊満開@名古屋市

2024/4/10

東山植物園の桜の廻廊の桜が満開です。

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写真:持統天皇のお手植えと伝わる奥山田のしだれ桜が放つオーラに負けそうです。@岡崎市

2024/4/14

持統天皇のお手植えと伝わる奥山田のしだれ桜が放つオーラに負けそうです。 奥山田のしだれ桜は、豊田市と岡崎市の境近くにあるしだれ桜の名木です。 1300年前に持統天皇(645-703)が上皇となられ、村積山(むらづみやま)に行幸されたときにお手植えになったと伝わる美しいしだれ桜の巨木です。 西暦702年のことです。 【PR】DMM.com証券のFX取引サービス【DMM FX】 その村積山の頂きには村積神社があります。 物部真福(もののべのまさち)が聖徳太子に願いこの地に真福寺を建立(推古天皇2年(594年) ...

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写真:雨続きだったので貴重な青空。彼岸桜が一気に満開。まさに花開く!。

2024/3/29

雨続きだったから貴重な青空、彼岸桜が一気に満開。うれしそうです。まさに花開く!。 なんとまあ、誇らしげな咲きっぷりでしょう! https://okazin86.com/amenohigansakura/ 【PR】【DMM FX】について詳しくはこちら  

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写真:寒の戻り!冷たい雨に耐えてふるえる彼岸桜

2024/3/26

寒の戻り!冷たい雨に耐えてふるえる彼岸桜。 2024年ことしの春は去年と違っていつまでも寒い。 花の季節がやってきたと思ったのに、カチンと寒い。 雨の日と曇りの日が続いて青空が見える日が少ない。 写真がなかなかうまく撮れません。 初めから気持ちが天候に負けているのが原因です。 雨の日には雨の写真があるとか言いますが、それはその通りです。 心からそう思います。 とはいうものの、心の奥では雨と寒さにくじけているので調子が出ません。 ビニール傘を差してはいますが、カメラもレンズも雨粒だらけです。 「モチーフとカ ...

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写真:石上神宮(いそのかみじんぐう)は伊勢神宮などと並ぶ日本最古の神社のひとつです。@天理市

2024/3/17

『日本書紀』には「石上振神宮」との記載も見えますが、そもそも『日本書紀』に「神宮」と記されているのは出雲と石上と伊勢だけなのです。 と石上神宮の森正光 宮司が説明されています。 石上神宮(いそのかみじんぐう)の神様は 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) です。 続いて、次のように説明されています。 古事記の神武東征のところに、熊野で難に遭われた天皇を救うために建御雷神(たけみかづちのかみ)が剣を降された話があります。 そこ ...

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愛知県警は、2024.3.19(火)以降運転免許更新の手続きをスムーズにするため、インターネットと電話による予約制への移行を発表しました。

2024/3/6

愛知県警は、運転免許更新の手続きをスムーズにするため、インターネットと電話による予約制への移行を発表しました。 3月19日以降に更新を迎える優良、一般、違反の各運転者と初回更新者が対象。 3月15日から専用サイトか専用ダイヤル=052(680)9777、平日午前9時~午後5時=で予約を受け付けます。 予約制度の対象となる人 令和6年3月19日(火曜日)以降に免許更新をされる方で、運転免許の講習区分が 「優良」「一般」「違反」「初回」の方が対象となります。 ※但し、西署・港署・幹部交番(高蔵寺、尾西、大府、 ...

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写真:現在の上野寛永寺の根本中堂は江戸の歴史に残したその威容をつつましくしても、屋根に葵の紋が眩しく輝いています。@台東区

2024/2/29

現在の上野寛永寺の根本中堂は江戸の歴史に残したその威容をつつましくしても、屋根に葵の紋が眩しく輝いています 寛永寺は天台宗の別格大本山です。 寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。 上野には津藩の藩主藤堂高虎の屋敷がありました。 高虎はその屋敷を提供し天海と共に家康の遺言通り、家康と天海そして高虎の3人が心静かに過ごすことのできる寺を上野に建てました。 高虎が家康が亡 ...

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織田、徳川、武田、今川の大勢力に翻弄された菅沼氏の居城 田峯城@北設楽郡設楽町

田峯城址石碑
本丸を守る空堀に架かる橋
本丸を守る空堀に架かる橋
大手門と物見台(再現)
本丸大手門と物見台(再現)

織田、徳川、武田、今川の大勢力に翻弄された菅沼氏の居城 田峯城。

本丸にある田峯城戦没病歿諸霊供養塔の由来記にこう記されています。

 田峯城は文明二年(1470)菅沼定信により築城され、五代菅沼定忠に至るまで今川・武田・織田・徳川勢の争いの狭間にあって、その時々の情勢に翻弄されながらも、山家三方田峯衆根城であった。

 天正三年の設楽原合戦では、城主定忠は約二百の兵を率いて武田方に属し、よく奮戦したが破れ、主君勝頼を守り田峯・武節・飯田へと逃れた。翌四年には菅沼一族並びに家老城所道寿、今泉道善等が対立して骨肉相争う凄惨な払暁戦の場と化した。

 勝頼が天目山で自刃後の天正十年五月(1582)飯田知久平城に於いて、定忠主従は最後を遂げた。

 歴代城主をはじめ城に関わる多くの戦死者の祖霊を永遠に慰めるため、縁者一同此の地に供養塔を建立する。

供養塔の由来記にあるような歴史を持つ田峯城(だみねじょう)は奥三河の山の中にある菅沼氏の居城でした。

田峯城戦没病歿諸霊供養塔と由来記
田峯城戦没病歿諸霊供養塔と由来記

また、本丸御殿に続く空堀に架かる橋の手前にある駐車場に立っている田峯城の歴史がわかりやすいので書いておきます。

田峯城駐車場にある説明板
田峯城駐車場にある説明板

 田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。

本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「龍の城」とも呼ばれていました。

 田峯城は文明二年(1470)菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。

 当時は下剋上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏の三氏が「山家三方衆」として結束していました。

しかしその団結も時によっては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。

五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。

復讐を誓った定忠は、翌天正四年(1576)7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀反の一族老若男女96名を惨殺、主謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。

定忠は天正十年(1582)飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。

このあたりは奥三河と呼ばれますが、ここ田峯から西に25㎞の山の中には松平氏(徳川)発祥の地である松平郷もあります。

このあたりは奥三河と呼ばれますが、ここ田峯から西に25㎞の山の中には松平氏(徳川)発祥の地である松平郷もあります。

同じ三河の土着勢力でもやがて大勢力となる松平氏(徳川)と菅沼氏はどのようにしてその違いが生まれたのは興味あるところです。

田峯城が築城された時代は織田、豊臣、徳川、今川、武田などの勢力がぶつかり合う戦国時代の影響がここ奥三河にも及んでいました。

本丸御殿からの眺望
本丸御殿からの眺望
正面右山上に田峯城本丸御殿を望む
正面右山上に田峯城本丸御殿を望む
田峯城物見台
物見台(再現)

田峯城(菅沼氏)、亀山城(奥平氏)、長篠城(菅沼氏)、野田城(菅沼氏)などは織田徳川連合と武田氏との三河の覇権を巡る戦いの歴史に登場する城です。

その中でも、この田峯城は独特の地形を生かした自然の要害の中にあり、際立つ特徴が感じられます。

城下に平坦な地は見られないうえに、一帯がまるで要塞みたいな地形です。

田峯城の位置取りは、北は木曽街道の恵那市、中津川市に、北西は豊田市を経由して岐阜市に、南西は岡崎市から鎌倉街道(東海道)に抜ける山間の道が交差する要衝を押さえています。

そしてこの田峯城を男の足で1日かけて南下すると新城市を経て豊川市、豊橋市に至ります。

また、家康の居城がある岡崎にも山中を西に歩いて1日の距離です。

三河の山奥が拠点だったとはいえ、このような場所を押さえていた田峯の菅沼氏には戦国時代の空気や情勢の変化がいち早くもたらされていたことでしょう。

田峯観音見晴台からの景色
田峯観音見晴台からの景色

大久保彦左衛門の三河物語では田峯のことを段峯と書いている。

大久保彦左衛門の三河物語では田峯のことを段峯と書いているのですが、その当時は田峯の表記ではなく段峯の表記だったのだろうと想像しています。

田峯の城下に入ると周囲を段々の山の峰が取りかこんでいます。

段峯と書いた方が城のある付近の風景を表しているようでしっくりとくる感じがします。

名は体を表すの言葉通り「段峯」の漢字を当てた気持ちがわかります。

  • 小説「風は山河より」は、作家宮城谷昌光さんの作品で野田城の菅沼定則(さだのり)、定村(さだすえ)、定盈(さだみつ)の野田菅沼氏三代の物語です。その物語を通して、奥三河を拠点とした山家三方衆の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手(つくで)奥平氏、そして家康、信玄らの息づかいを感じることができます。

田峯の菅沼氏は、長篠(ながしの)や、野田など近隣に一族がいるのでどの城主も菅沼姓です。

菅沼氏釘抜き紋のある甲冑
菅沼氏釘抜き紋のある甲冑
本丸御殿二の間・上段の間
本丸御殿二の間・上段の間

田峯の菅沼氏は、長篠(ながしの)や、野田など近隣に一族がいるのでどの城主も菅沼姓です。

田峯の菅沼宗家から分かれた菅沼氏は、それぞれの考え方や支配地などの都合で武田や今川方、また徳川方に組した歴史があります。

そのようなこともあって、同族でありながらも敵味方に分かれて戦うこともしばしでした。

山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる、田峯(だみね)菅沼氏 作手(つくで)奥平氏 長篠(ながしの)菅沼氏の三氏は、互いに姻戚関係にあり山奥の弱小勢力でありながらも一致団結して外敵に対抗しながら甲斐と三河を結ぶ交通の要衝を押さえていました。

武田側から見ると諏訪から伊那、飯田を通って徳川の勢力圏の豊橋に入る街道の要衝を支配する勢力です。

徳川方から見ると、武田が南下して三河に攻め入るのを防ぐための砦となる勢力です。

山家三方衆は武田も徳川も、戦略上なんとしても取り込みたい勢力でした。

本丸御殿色代
本丸御殿色代(再現)

田峯の城下に入って驚いたのは、こんな山の中で勢力を維持しながら戦国時代を生き抜いたことです。

交通の要衝であり情報の交差点でもあったことは理解できても、この景色を見る限り武田や徳川の大勢力がこんな山の中まで押し寄せてくる事は想像できません。

景色の美しさとは裏腹に、心穏やかに過ごせた日などはなかったのでしょうか。

長篠合戦に破れた武田勝頼は城主菅沼定忠と共にこの場所まで来たが?入城できなかった。
長篠合戦に破れた武田勝頼は城主菅沼定忠と共にこの場所まで来たが?入城できなかった。

田峯は東三河であり豊川、豊橋に近い奥三河の勢力です。

徳川となる松平氏は元はといえば西三河の矢作川に近い山中の勢力です。

同じ山続きの勢力で豊川に近い山家三方衆と違ったのは歴史の早い時点で周辺の勢力を傘下に収め平野部に進出して勢力を拡大したことでしょうか。

田峯の菅沼氏は豊川の平野部を今川氏が押さえていたので山を下りて平野部に降りて来られなかったのかもしれません。

実際に田峯城に来てみると資料や物語などにあることが何重にも重なって頭を巡ります。

現場に立つと当時を生きた人たちの気持ちを感じることが出来ます。

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