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織田、徳川、武田、今川の大勢力に翻弄された菅沼氏の居城 田峯城@北設楽郡設楽町

田峯城址石碑
本丸を守る空堀に架かる橋
本丸を守る空堀に架かる橋
大手門と物見台(再現)
本丸大手門と物見台(再現)

織田、徳川、武田、今川の大勢力に翻弄された菅沼氏の居城 田峯城。

本丸にある田峯城戦没病歿諸霊供養塔の由来記にこう記されています。

 田峯城は文明二年(1470)菅沼定信により築城され、五代菅沼定忠に至るまで今川・武田・織田・徳川勢の争いの狭間にあって、その時々の情勢に翻弄されながらも、山家三方田峯衆根城であった。

 天正三年の設楽原合戦では、城主定忠は約二百の兵を率いて武田方に属し、よく奮戦したが破れ、主君勝頼を守り田峯・武節・飯田へと逃れた。翌四年には菅沼一族並びに家老城所道寿、今泉道善等が対立して骨肉相争う凄惨な払暁戦の場と化した。

 勝頼が天目山で自刃後の天正十年五月(1582)飯田知久平城に於いて、定忠主従は最後を遂げた。

 歴代城主をはじめ城に関わる多くの戦死者の祖霊を永遠に慰めるため、縁者一同此の地に供養塔を建立する。

供養塔の由来記にあるような歴史を持つ田峯城(だみねじょう)は奥三河の山の中にある菅沼氏の居城でした。

田峯城戦没病歿諸霊供養塔と由来記
田峯城戦没病歿諸霊供養塔と由来記

また、本丸御殿に続く空堀に架かる橋の手前にある駐車場に立っている田峯城の歴史がわかりやすいので書いておきます。

田峯城駐車場にある説明板
田峯城駐車場にある説明板

 田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。

本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「龍の城」とも呼ばれていました。

 田峯城は文明二年(1470)菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。

 当時は下剋上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏の三氏が「山家三方衆」として結束していました。

しかしその団結も時によっては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。

五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。

復讐を誓った定忠は、翌天正四年(1576)7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀反の一族老若男女96名を惨殺、主謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。

定忠は天正十年(1582)飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。

このあたりは奥三河と呼ばれますが、ここ田峯から西に25㎞の山の中には松平氏(徳川)発祥の地である松平郷もあります。

このあたりは奥三河と呼ばれますが、ここ田峯から西に25㎞の山の中には松平氏(徳川)発祥の地である松平郷もあります。

同じ三河の土着勢力でもやがて大勢力となる松平氏(徳川)と菅沼氏はどのようにしてその違いが生まれたのは興味あるところです。

田峯城が築城された時代は織田、豊臣、徳川、今川、武田などの勢力がぶつかり合う戦国時代の影響がここ奥三河にも及んでいました。

本丸御殿からの眺望
本丸御殿からの眺望
正面右山上に田峯城本丸御殿を望む
正面右山上に田峯城本丸御殿を望む
田峯城物見台
物見台(再現)

田峯城(菅沼氏)、亀山城(奥平氏)、長篠城(菅沼氏)、野田城(菅沼氏)などは織田徳川連合と武田氏との三河の覇権を巡る戦いの歴史に登場する城です。

その中でも、この田峯城は独特の地形を生かした自然の要害の中にあり、際立つ特徴が感じられます。

城下に平坦な地は見られないうえに、一帯がまるで要塞みたいな地形です。

田峯城の位置取りは、北は木曽街道の恵那市、中津川市に、北西は豊田市を経由して岐阜市に、南西は岡崎市から鎌倉街道(東海道)に抜ける山間の道が交差する要衝を押さえています。

そしてこの田峯城を男の足で1日かけて南下すると新城市を経て豊川市、豊橋市に至ります。

また、家康の居城がある岡崎にも山中を西に歩いて1日の距離です。

三河の山奥が拠点だったとはいえ、このような場所を押さえていた田峯の菅沼氏には戦国時代の空気や情勢の変化がいち早くもたらされていたことでしょう。

田峯観音見晴台からの景色
田峯観音見晴台からの景色

大久保彦左衛門の三河物語では田峯のことを段峯と書いている。

大久保彦左衛門の三河物語では田峯のことを段峯と書いているのですが、その当時は田峯の表記ではなく段峯の表記だったのだろうと想像しています。

田峯の城下に入ると周囲を段々の山の峰が取りかこんでいます。

段峯と書いた方が城のある付近の風景を表しているようでしっくりとくる感じがします。

名は体を表すの言葉通り「段峯」の漢字を当てた気持ちがわかります。

  • 小説「風は山河より」は、作家宮城谷昌光さんの作品で野田城の菅沼定則(さだのり)、定村(さだすえ)、定盈(さだみつ)の野田菅沼氏三代の物語です。その物語を通して、奥三河を拠点とした山家三方衆の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手(つくで)奥平氏、そして家康、信玄らの息づかいを感じることができます。

田峯の菅沼氏は、長篠(ながしの)や、野田など近隣に一族がいるのでどの城主も菅沼姓です。

菅沼氏釘抜き紋のある甲冑
菅沼氏釘抜き紋のある甲冑
本丸御殿二の間・上段の間
本丸御殿二の間・上段の間

田峯の菅沼氏は、長篠(ながしの)や、野田など近隣に一族がいるのでどの城主も菅沼姓です。

田峯の菅沼宗家から分かれた菅沼氏は、それぞれの考え方や支配地などの都合で武田や今川方、また徳川方に組した歴史があります。

そのようなこともあって、同族でありながらも敵味方に分かれて戦うこともしばしでした。

山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる、田峯(だみね)菅沼氏 作手(つくで)奥平氏 長篠(ながしの)菅沼氏の三氏は、互いに姻戚関係にあり山奥の弱小勢力でありながらも一致団結して外敵に対抗しながら甲斐と三河を結ぶ交通の要衝を押さえていました。

武田側から見ると諏訪から伊那、飯田を通って徳川の勢力圏の豊橋に入る街道の要衝を支配する勢力です。

徳川方から見ると、武田が南下して三河に攻め入るのを防ぐための砦となる勢力です。

山家三方衆は武田も徳川も、戦略上なんとしても取り込みたい勢力でした。

本丸御殿色代
本丸御殿色代(再現)

田峯の城下に入って驚いたのは、こんな山の中で勢力を維持しながら戦国時代を生き抜いたことです。

交通の要衝であり情報の交差点でもあったことは理解できても、この景色を見る限り武田や徳川の大勢力がこんな山の中まで押し寄せてくる事は想像できません。

景色の美しさとは裏腹に、心穏やかに過ごせた日などはなかったのでしょうか。

長篠合戦に破れた武田勝頼は城主菅沼定忠と共にこの場所まで来たが?入城できなかった。
長篠合戦に破れた武田勝頼は城主菅沼定忠と共にこの場所まで来たが?入城できなかった。

田峯は東三河であり豊川、豊橋に近い奥三河の勢力です。

徳川となる松平氏は元はといえば西三河の矢作川に近い山中の勢力です。

同じ山続きの勢力で豊川に近い山家三方衆と違ったのは歴史の早い時点で周辺の勢力を傘下に収め平野部に進出して勢力を拡大したことでしょうか。

田峯の菅沼氏は豊川の平野部を今川氏が押さえていたので山を下りて平野部に降りて来られなかったのかもしれません。

実際に田峯城に来てみると資料や物語などにあることが何重にも重なって頭を巡ります。

現場に立つと当時を生きた人たちの気持ちを感じることが出来ます。

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