信光明寺(しんこうみょうじ)は松平3代信光の創建です。
信光明寺は松平3代信光創建の寺です。江戸時代に住職が将軍拝謁の道中に病み平癒を祈った芭蕉天神の加護により役目を果たします。帰国後自ら彫ったご神体を裏の山に安置しそれが岩津天神となります。
また一方で岡崎観光文化百選の信光明寺の説明書きにはこうあります。
松平三代信光の創建になる、徳川将軍家ゆかりの名刹です。
往時、壮麗を誇った堂宇は、伊勢新九郎(北条早雲)に放火され焼失しましたが、焼け残った観音堂は、室町中期の建築様式を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。
観音堂の屋根の軒先のそりの深さ、総門の屋根にあがっている鬼瓦などは、他ではあまり見られないものです。
墓所のいちばん高いおくまったところに、松平三代(親氏・泰親・信光)の墓があります。
永承5年(1508年)に伊勢新九郎(北条早雲)が今川氏親の命で寺の隣にある岩津城を攻めたときに信光明寺は放火されたようです。
ウィキペディアでは攻められた原因というのはどうも都でのもめ事によるものとされています。
三河物語や改正三河後風土記には岩津城での戦い方やその様子が語られています。
寺の裏山にある岩津天満宮とは深いつながりがあります。
寺の裏山にある岩津天満宮とは深いつながりがあります。
江戸時代に信光明寺の住職が裏山に社殿を整え自ら彫ったご神体を安置したのが岩津天満宮の始まりと伝えられています。
芭蕉天神の説明書きにその経緯(いきさつ)があります。
芭蕉天神
信光明寺芭蕉の天神は宝暦九年(1795年)正月第二十二世の住職一誉上人将軍家年頭御礼のため
江戸表へ赴く途中駿河国興津で病にかかり由井にて宿を取る此辺りの芭蕉(地方名)の天神に祈願し
疝病(さんびょう)の病も平癒して無事江戸のご用を済まし帰国せられる。
上人は神体を(菅原道真公)を彫刻し観音堂に暫くの間安置するも山の上(現在岩津天満宮地)社殿を整え
芭蕉天神をまつる明治九年神仏混清禁ぜられ芭蕉天神御尊体を信光明寺内へ移し奉り現在におよぶ。
芭蕉天神はGoogleマップで探すと静岡市清水区由比の北の山中に見つかります。
一誉上人自ら彫ったご神体は明治時代になって信光明寺の観音堂に戻ってはきましたが、山の上にある岩津天満宮は今も多くの参拝者を集めています。
信光明寺観音堂の説明書
この寺は、宝徳三年(1451)に岩津城主松平三代信光が。祖父親氏、父泰親の菩提をとむらうために創立したものである。
釈誉存冏(しゃくよぞんけい)上人を開山とし、信光の名を取り信光明寺と名づけられた。
観音堂は、棟札によれば文明十年(1478年)に建立されたもので方三間、入母屋造り。こけら葺きで、
周囲を石で囲んだ土壇城に立ち。土間床となっている。
信光明寺の初代住職、釈誉存冏(しゃくよぞんけい)の元で出家した松平信光の孫の超誉存牛(ちょうよそんぎゅう1469-1550)は、学んで1511年ここ信光明寺の3世(住職)となっています。
その後1521年に浄土宗総本山京都知恩院の25世となり、都での勤めを終えると里帰りして信光明寺の住職となります。
晩年の1545年には松平家の本拠地である松平郷の高月院住職になります。
家系図のとおり松平5代長親(ながちか)は超誉存牛のお兄さんです。
いろいろと都との関係が深い寺です。
信光明寺フォトギャラリー
信光明寺には松平太郎左衛門親氏、松平太郎左衛門泰親、松平信光と親氏の息子といわれる酒井家の初代広親の墓もあります。