写真 徳川家康

写真:徳川四天王筆頭の酒井忠次は家康と先祖が同じ松平太郎左衛門親氏です。親氏は松平家に婿として入るよりも先に酒井家の婿に迎えられていてその時に酒井家の祖 酒井広親は生まれています。

岡崎城の龍城神社社務所脇の休憩所に吊ってあった徳川四天王を描いた2021カレンダー。イラストは柄澤輝文さんです。素晴らしい!!

徳川四天王筆頭の酒井忠次は家康と先祖が同じ松平太郎左衛門親氏(まつだいらたろうざえもんちかうじ)でした。

親氏は松氏家の婿(むこ)として迎えられる以前は時宗(じしゅう・仏教の一宗派)のお坊さんで、徳阿弥(とくあみ)と名のっていたときにお坊さんをやめて?酒井家の婿になりました。

そのときに親氏の子として生まれたのが酒井広親で、その広親の子孫が酒井忠次です。

忠次は家康をおおいにサポートします。

徳川四天王筆頭の酒井忠次は酒井家始祖の広親から数えて7代目にあたります(荘内酒井歴史文化振興会)

カレンダーのイラストでは違う兜をかぶっていますが、唐の頭(日本では手に入らない動物のやくの白い毛を兜につけていたのでそう呼ばれることがありました)の酒井忠次といえば知らぬ者は居ないほど名をとどろかせている武将です。

三河物語(現代語訳三河物語)の著者大久保彦左衛門は酒井家の発祥をこう書いています。

徳の代(親氏が徳阿弥だったころ)に時宗になられて、お名前は徳阿弥とお呼び申した。

西三河坂井(西尾市)の郷へ立ちよられ、お足を休められた。

そのおり、さびしさゆえに、身分のひくい者に、お情けをかけられ、若君ひとりをもうけられた。

後に坂井でもうけた子を訪ね、対面したとき、「うたがいなくわが子だ。とはいえ、他人の家督を相続する以上は、長男とはいえない。家来としよう」とおっしゃって、のちのちまで家老職となさったということ、たしかではないが、うわさに伝わっている。

現代語訳三河物語

大久保彦左衛門はなぜか意味ありげで、酒井氏を貶めているようにも受け取れる表現を使っています。

たぶん「大久保家も酒井家に負けないような評価をしてもらってもよい家柄なのに!」と思う気持ちがあり、ついついそのような表現になってしまったのでしょう。

三河物語には書かれていませんが広親の母親が早くに亡くなったので、酒井家の者が松平郷まで親氏を訪ねたという話があります。

広親の保護者になって欲しいという相談ではなかったのかと思います。

酒井広親は1459年に亡くなっているので、年齢的には松平3代の信光(1404-1488)の活躍する時代と重なります。

酒井広親は1459年に亡くなっているので、年齢的には松平信光(1404-1488)と生きた時代重なります。

いくつか資料を読んでも人物の生年や没年のあいまいさが多いのですが、そこのところは矛盾を抱えながらもイメージを膨らませて書いていくことにします。

酒井家の婿であり父なのに松平太郎左衛門家の婿になってしまっている松平親氏の家来として広親は仕えるようになります。

親氏は広親を召し抱えることで、酒井家にも息子の広親にも父親としての責任を果たしたつもりだったのでしょう。

よく考えてみるとそうするのがベストな方法のようにも思えます。

それにしてもいまの常識をあてはめて考えると、はたしてそんなことが許されるのかな?と思わずにはいられないセンシティブな物語です。

酒井家の婿のまま松平家にも跡継ぎを作ってしまう親氏のバイタリティーと生き様には驚きます。

もしかすると、酒井家に男子が誕生したので自分の婿としての役目はそれで果たせた思っていたのかもしれません。

そのようないきさつがあった酒井家は松平親氏の子の酒井広親を始祖としてその子孫が繁栄し家運も上昇していきます。

酒井広親の墓
酒井広親墓

松平太郎左衛門親氏に家来として仕えた酒井広親のことを書いた資料はほとんど読んだことはありません。

少しでも手がかりがつかめるかもしれないと思い広親のお墓に行って見ようと思い立ち、ネットで調べてみると岩津城の下にある信光明寺に見つかりました。

お墓に立てられている説明板に亡くなった年月の表記があり、それが石の宝塔に掘られているものだそうで信頼できる情報です。

信光明寺には、酒井広親の父の初代松平親氏、2代泰親、3代信光の墓がありますが、その墓地から離れたところに酒井広親の墓はあります。

松平泰親や信光と力を合わせて戦ったはずですから岩津城下にある信光明寺に松平信光が身内でもある酒井広親の墓を建てたのでしょう。

酒井家(坂井家)のあった西尾市にも墓があります。

坂井家の墓
左から、酒井広親の母、広親の祖父、徳阿弥(松平親氏)の父長阿弥、そして右端が酒井広親の墓。

一方酒井家があった西尾市にも墓があります。

酒井家の一族と長阿弥(酒井家の婿に入っていた松平親氏の父)の墓ですが、もともとバラバラにあったお墓が後からこの場所にまとめられて勢ぞろいしたようにみえます。

「酒井五郎右衛門娘墓」の立て札があるのが酒井広親の母の墓です。

広親がまだ幼少のときに亡くなってしまいました。

亡くなった母親は、ここにある墓から少し北にある誓覚寺に葬られたということを何かで読んだことがあります。

なにを見て覚えているのかが思い出せないのでわかったときにはアップデートしておきます。

写真ギャラリー 坂井広親の信光明寺にある墓と酒井氏発祥の地、西尾市吉良にある墓。

右端が広親の墓です。

酒井広親の子孫は家康や将軍家の側近として大活躍します。

また、各地に大名として配置されています。

子孫たちが大活躍できたのは、酒井広親が父親の親氏から徳川家と同じ優秀なDNAを受け継いだからだと思います。

いろいろ昔のことを知りたいので墓参りに来て尋ねているのに何も教えてはくれません。

いろいろ知りたいので本人の墓にお参りに来て尋ねているのに無言です。

時宗の僧だった徳阿弥が還俗して松平太郎左衛門家の婿になったといわれています。

けど松平家よりも先に酒井家に婿として入っていたのにもかかわらず還俗してなかったの?。

松平家に来たときにはまだ遊行僧として連歌の会に参加していたりしてお坊さんやめてなかったの?とかいろいろと疑問が湧いてきます。

しかしもう詮索はこのくらいにしておきます。

調べてもさっぱりわからないので・・・。

この件は、もう一度松平親氏のお墓参りのときに改めて尋ねてみることにします。

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