写真 徳川家康 戦国の城 歴史

写真:信玄包囲も定盈は籠城奮戦。2万7千の兵に包囲されながらも籠城。400の兵でひと月を持ちこたえた。信玄はここで鉄砲に撃たれ、しばらくして亡くなったと伝えられている。@新城市

信玄包囲も定盈籠城奮戦

信玄包囲も定盈籠城奮戦。

信玄の2万7千の兵に包囲されながらも城主菅沼定盈は城内の井戸の水脈を断たれるまで籠城して奮戦した。

開城するまでのひと月をわずか400の兵で持ちこたえた野田城主菅沼定盈(すがぬまさだみつ)。

1573年1月から2月にかけての出来事でした。

包囲軍2万7千人、籠城軍400人という合戦の人数には驚くほどの差があります。

信玄はこの時の戦いで鉄砲に撃たれ、しばらくして亡くなったと伝えられています。

これが事実となると信玄の包囲軍と籠城して奮戦した菅沼定盈は時代を変えた男です。

信玄包囲も菅沼定盈は籠城し奮戦の証、新城市設楽原歴史資料館に展示の信玄砲の説明

日本最古

伝説の火縄銃【信玄砲】

 日本に残る最古といわれる火縄銃が 新城にある

 宗堅寺に伝わる「信玄砲」である

 濡羽色に鈍く光る銃身は

 440年のはるかな時空を超え

 戦国の猛虎「信玄」の哀傷の最後を物語る

時は元亀4年(1537)1月11日より

野田城を巡る激しい戦いが繰り広げられた

宮城谷昌光氏の著書『風は山河より』に描かれる武将

菅沼定盈 400の兵と

武田信玄 27000の兵との攻防である

 

 昼間 両軍の白熱の戦いも

 日が沈み 夜ともなると 城の周りは静けさに包まれる

 すると城内から聞こえる心に染み入る笛の音

 名人 村松芳休の 奏じる 笛である

 信玄 こよなく この音を愛し 夜な夜な傾聴する

その夜も信玄 笛の音に誘われ

野田城の堀端まで 忍び来て しばしたたずむ

これを見て 鉄炮名人 鳥居三左衛門

鉄炮を据え 狙いを定め 発砲する

信玄に当たるとの声もあり 武田に大きな衝撃あり

 

 2月9日の夜の出来事なれども

 金堀衆により 水を絶たれた野田城

 翌10日 定盈 ついに 開城を決意する

 実に30日間に及ぶ籠城である

 その後 まもなく信玄 信州駒場で病歿す

このとき使われた鉄炮は

家康から定盈に贈られたものと言われ

そのいきさつから「信玄砲」とも呼ばれ 今に伝わる

この伝説がしんじつであるならば・・・

「信玄砲」はこの世に残された日本最古の火縄銃である

新城 宗堅寺所蔵

野田城跡にやって来ても、ここでの戦いがどのようなものであったのかは、物語に頼ることでしかイメージが湧いてきません。

当時は城の中にこんなにたくさんの木が茂っていることはありません。どうやって城を守ればよいのか見当も立ちません。野田城跡への入口の説明書を読んでから、ぐるっと野田城跡の周りを一周して地形を確かめながら想像するほかに手立てはなさそうです。

野田の戦

元亀4年(1573)1月、上洛を狙う武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。

菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。

野田城は小城ではあるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。

そこで信玄は、甲州の金掘人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。

定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。

新城市教育委員会

三河物語の野田城の記述があります。

爰(ここ)に藪の内に小城有ける。何城ぞととわせ給へば、野田之城成りと申。

信玄は聞及たる野田は是にて有りか、その儀ならば通りかけに踏みちらせと仰(おおせ)あって押寄給へば、

打立てあたりへもよせ不付(つけず)。

三河物語の著者の大久保彦左衛門は当時はまだ戦にでていません。

後の時代に元武田方の武士から野田城抱囲戦の話を聞いたのだろうと思います。

菅沼定盈本人や家臣からも聞けば良いと思うのですが、彦左衛門は野田の城を”藪の中の小城”などと表現しています。

そんな表現の仕方を見ると、菅沼定盈のことがあまり好きではなかったのかもしれません。

ちなみに、野田の戦は1573年なので、1560年生まれの大久保彦左衛門は当時13歳です。

参考にした本

 

 

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