Photo 徳川家康 歴史 風景

写真:小説家の今東光(こんとうこう)さんは大阪城の石垣を見て男の城と書いた。

2023/12/4

井上博道さんの写真をまねて撮った写真 小説家の今東光さん(1898-1977)はその本のなかで、大阪城の石垣を見て男の城と書いています。 それは、ご自身の小説の中ではありません。 産経新聞社が出版した「美の脇役」の中でそうお書きになっています。 その「美の脇役」は産経新聞社時代の司馬遼太郎さんと、同じく産経新聞社時代の写真家、井上博道さんによって構成されています。 そして歴史や仏像ヘの造詣が深い二人が美の脇役として吟味し撮影した写真を、選ばれた著名な案内役の方々の解説によって楽しめるという構成になっていま ...

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写真:現代に言葉として伝わる大坂の陣での出来事、外堀を埋める!。難攻不落の大阪城外堀の美しい石垣の眺めと紅葉。

2023/12/3

大阪城南外堀東方向 大阪城西外堀越しに見える天守閣 大阪城南外堀西方向 城内から見た大阪城南外堀 400年以上前の大坂の陣での出来事、「外堀を埋める!」。 難攻不落の名城「大阪城」外堀の美しい石垣の眺めと紅葉が晩秋を彩っていました。 外堀を埋める 現代にまでその言葉が伝わり、日常よく交渉ごとなどで使われている大坂の陣での象徴的な出来事をルーツとしている「外堀を埋める」!。 大坂の陣の当時とは堀や城の位置、形は違っているとは言え、実際にこの場に来てみると、外堀を越えて城内に攻め入るのは無理です。 そこに立っ ...

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苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

2023/11/27

遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの恵那市明智町辺りまで広いエリアに勢力があったようです。 その拠点は美しい石垣で有名な岩村城のある恵那の岩村(恵那市岩村町)でした。 そして関ヶ原の戦い以降、岩村は岩村藩となり大給(おぎゅう)松平家が入った。 明智は旗本明智遠山氏6,500石の領地となり明治まで陣屋が置かれていました。 そして苗木の遠山氏は苗木城を居城とする10,500 ...

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写真:動物たちの表情シリーズ1@東山動物園

2023/11/25

東山動物園のタイル壁画伊藤若冲の鳥獣花木図屛風を思い出しますhttps://artflow-jp.com/jakuchu-chojukabokuzu/ 動物たちの表情シリーズです。 名古屋市の東山動物園は大人気(昔からですが)、入園者でいっぱいです。 動物園は子供たちだけの場所ではありません。 心が疲れてしまったときに、考えを巡らせたり心を解(ほど)いて癒やされる静的な場所がお寺や神社です。 一方、動的(ダイナミック)に癒やされて心もいっしょに躍動し始めるパワースポットが動物園です。 試しに1人で行って感 ...

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Photo 動物

写真:神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。@東山動物園

2023/11/22

神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。 10月にやってきたのですが、できて間もない新築のジャガー舎に入っています。 まだ慣れないせいか奥の暗い部屋の中を行ったり来たりしています。 人がいないときには外に出てくるようです。 暗いうえに動き回るのでうまく写りません。 マヤと言う名前は六甲山から西に尾根続きの摩耶山にちなんで名付けられたのでしょうね。 王子動物園は摩耶山の麓にあるし。 マヤは繁殖を目指して神戸から名古屋までやって来ました。 早くジャガーの子供が見たいです。 王子動物 ...

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写真:秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)の墓所がある太融寺@大阪市北区

2023/11/23

太融寺(たいゆうじ)には秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)(1569-1615)の墓があります。 淀殿の墓は明治時代のはじめまでは、大阪城のすぐ北にある城東区鴫野(しぎの)というところにありましたが、明治10年11月、そこに城東練兵場が造成されるにあたり太融寺に移祀されました。(太融寺碑文) 淀殿の墓所を太融寺とした理由は、大坂の陣に於いて寺が豊臣方に味方した経緯があって、またその縁が深いことに拠るものです。 淀殿が1615年の大坂夏の陣で亡くなってから1877年(明治10年)までに262年もの年月が ...

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写真:柚の木のトゲはイバラそのもの。こんなイバラの道など歩けるわけがない。そう思った。@東山植物園

2023/11/24

柚(ゆず)の木のトゲはイバラそのもの。 見ただけでも目に刺さりそうで痛くなります。 世間では、イバラの道など平気な顔をしてよく言われますが、歩けるわけがない。 軽い気持ちでそれを言う人をこのイバラの中に頭を突っ込んで差し上げたい。 そう思います。 東山植物園では秋になると日当たりのよい場所に植えてある柑橘類が実をつけます。 柚(ゆず) 温州(うんしゅう)みかん、柚、ダイダイなどがあります。 私は柚に惹かれます。 理由はトゲの痛そうなところとその香りです。 ダイダイ 温州(うんしゅう)みかん 東山植物園 h ...

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写真:JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色の稲穂がコラボ。@日進市

2023/10/31

JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色に実った稲穂がコラボ。 きっとこの写真のような景色に溶け込むことをイメージして描かれたのでしょう。 実りの秋の2週間ほどが鑑賞のタイミングです。 お城のイラストは小牧長久手の戦いで家康の本拠地、岡崎を目指す秀吉軍を阻止するために全員が討死した城代の丹羽氏重以下200名が詰めていた岩崎城です。 黄金色の田んぼの中に立っている鉄塔を見上げて気分転換です。 岩崎城 http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/tatakai.ht ...

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写真:佐和山山麓の龍潭寺入口に座る石田三成像 @彦根市龍潭寺

2023/11/23

佐和山城山麓の龍潭寺(りょうたんじ)入口にある石田三成像は頭脳明晰な実務家を彷彿とさせる表情で京都大阪の方角?を向いて座っています。 石田三成の居城、佐和山城へは上の写真に見える入口から入り、龍潭寺の堂々とした山門をくぐります。 そこからまっすぐの所にある観音堂を右に折れて、城があった佐和山の頂上まで登ります。 三成の時代には龍潭寺はまだありません。 この辺りの佐和山の山麓に三成の屋敷を含め、秀吉から与えられた20万石ほどもあるこの地を治めるための機能が集まっていたと想像できます。 龍潭寺の山門の柱には、 ...

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写真:秋を探しにやって来たのに熱帯睡蓮の夏色のインパクトに目的を忘れてしまった。@東山植物園

2023/11/5

秋を探しにやって来たのに熱帯睡蓮の放つ夏色のインパクトにここに来た目的を忘れてしまいました。 東山植物園リンク https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/05_plant/

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1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。

1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。

長篠城址史跡保存館に長篠・設楽原で戦った将士の年齢一覧があったので興味深く見てきました。

下の表は、将士の年齢をエクセルにまとめたものです。

現代ではそろそろ課長になろうかという働き盛りです。

長篠城で籠城戦を戦い抜いた城主の奥平貞昌はそのときはまだ21歳でした。

就職活動で企業エントリーに忙しい大学生と同じ年齢です。

そして、長篠城籠城軍の平均年齢は25.3歳という若さです。

若いとはいえ、当時は一人前の男として自分の命をかけて戦わなければならない年齢でした。

一方、寄せ手の武田軍は平均年齢38.1歳です。

信玄公の時代から仕えてきた重臣が平均年齢を上げているように見えます。

武田軍15,000人 38.1歳  織田軍30,000人 36.7歳 徳川軍8,000人35.4歳  籠城軍500人25.3歳 

平均年利34.8歳  これは主な将士64人を一覧にまとめたもので、他にもまだ名の知れた武将もいるのですが、設楽原の戦場を支配していた年齢的な雰囲気の手がかりになります。

そして、足軽も含めた総人数は 53,500人 でした。

きっと全体の平均年齢も、この将士たちの年齢とそれほど違わないのではないかと思っています。

こんな働き盛りの男たちが、長篠城を攻めたり、馬防柵を築いて鉄砲を三段撃ちしたり、騎馬で敵に襲いかかったりと、休む間もなく戦ったのです。

戦場となった設楽原は南北に流れる、ひとが飛び越せるほどの連吾川をはさんで、お互いの距離が200mほどしか離れていませんでした。

徳川・織田軍は敵を引きつけて鉄砲を放てば、ほぼ確実に倒せる距離であったことがわかります。

設楽原で決戦が始まる日の早朝に、長篠城の東を流れる宇連川の向こう岸の鳶ヶ巣山砦をはじめとした武田軍の5つの砦を酒井忠次を大将とする別働隊2000人が鉄砲500丁を使って急襲します。

設楽原で決戦が始まる日の早朝に、長篠城の東を流れる宇連川の向こう岸の鳶ヶ巣山砦をはじめとした武田軍の5つの砦を酒井忠次を大将とする別働隊2000人が鉄砲500丁を使って急襲します。

砦の武田軍は壊滅し、長篠城を開放しました。

5月21日の夜明けのことです。

そのことにより、設楽原にまで陣を進めていた武田軍は退路を断たれてしまい、武田勝頼は馬防柵ヘの突撃を命令しました。

そのときの各砦を守っていた武田軍の全勢力は2,270人。

その内訳は

久間山砦 総勢600人

 和気善兵衛、大戸民部、倉賀野秀景、原胤成の300名

 野洲浪人組 300人余

中山砦 総勢520人

 五味与惣兵衛 280人 名和無理之助 飯尾助友 飯尾祐国 名和田春継ら240人

鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで) 総勢500人

 武田信実 250人 小宮山信近 250人

姥ヶ懐砦(うばがふところとりで) 総勢350人

 三枝守友、三枝守義、三枝守光、草刈隼人助、宍戸大膳

君ヶ伏床砦(きみがふしどとりで) 総勢300人

 和田信業、長竹昌基、反町大膳

でした。

宇連川の向こうの岸の山には、武田兵庫頭信実(信玄の弟)以下各武将が陣を敷いた。5月20日、本体は設楽原へ進出したが、この部隊は押さえとしてここに残った。

5月21日の夜明け(太陽暦7月9日)夜明け、東三河の将士をひきた酒井忠次(吉田城主・豊橋市)はこの砦を急襲した。信実以下激しく戦ったが多数が討ち死にして追い落とされた。同時刻、武田軍本体も設楽原の織田・徳川軍の陣地に突入していった。

と、長篠城本丸の説明板が教えてくれます。

また、長篠城本丸にある別の説明板は次のように説明しています。

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。

この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣砦方面の火の手と銃声に驚き本体に戦闘開始を指令した。

5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ちとられ残兵は「長走り」の瀬を渡って本体に合流しようとした。その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり5つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。

酒井忠次(吉田)

先導

近藤秀用(井伊谷)鈴木重好(瀬戸)阿部定次(宗重)豊田秀吉(吉川)

菅沼定盈(野田)西郷家員(西川)牧野康成(牛久保)松平伊忠(深溝)

松平家忠(東条)松平清宗(竹谷)松平忠次(津平)松平康忠(長沢)松平真乗(大給)設楽貞道(川路)戸田重光(仁連木)奥平貞能(作手)本多広孝(田原)名倉信光(名倉)

織田軍目付

金森長近 佐藤則定 武藤次久

鉄砲頭 青山幸忠 加藤景村

この酒井忠次を大将とする別働隊は総勢4000人、鉄砲500丁という機動部隊です。

砦の武田軍の2倍の4,000人と500丁の鉄砲で全滅させてしまいます。

これにより籠城していた長篠城を救いました。

砦の戦闘が始まったタイミングで、武田軍は徳川・織田連合軍に突撃を始めます。

長篠・設楽原の戦場にいた53,500人の兵のうち、鳶ヶ巣山砦方面は6、000人、長篠城包囲軍2,000人として、その8,000人を差し引くと43,500人が設楽原で戦っていたことになります。

長篠・設楽原の戦場にいた53,500人の兵うち、鳶ヶ巣山砦方面は武田、徳川・織田の両軍で6、000人、長篠城包囲軍2,000人として、8,000人を差し引くと43,500人が設楽原で戦っていたことになります。

戦いの規模をイメージしやすくするために野球場とサッカースタジアムの収容人数を参考に説明いたします。

豊田市のトヨタサッカースタジアムの席数が44,380席、甲子園球場が47,400席なので、ちょうどそのくらいの人数が、幅200m、長さ2㎞ほどの細長い戦場で戦っていたことになります。

長篠・設楽原PAにある両軍の陣取り図

戦闘は、5月21日の明け方に始まり午後2時ごろに終わります。

武田軍は約10,000人の兵を失い敗北しました。

そして名のある武将もほとんどが戦死してしまいます。

一方、徳川家康・織田信長連合軍は、約3,000人の兵を失いました。

私は徳川・織田軍の死者が意外にも多いことに驚いています。

武田の騎馬隊をおびき出すために、足軽が馬防柵の外に出て騎馬隊をおびき寄せるときにやられたのではないかと想像していますが、やはり激戦だったことを物語っています。

長篠設楽原の戦いは、鉄砲が戦さの主力兵器として使用された最初の戦いです。

そして、徳川家康・織田信長連合軍の勝利は、その後の武田の衰退と徳川の台頭へとつながりました。

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