写真 徳川家康

1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。

1575年の長篠・設楽原の合戦で戦った武田軍と徳川・織田連合軍の将士の平均年齢は34.8歳という若さです。

長篠城址史跡保存館に長篠・設楽原で戦った将士の年齢一覧があったので興味深く見てきました。

下の表は、将士の年齢をエクセルにまとめたものです。

現代ではそろそろ課長になろうかという働き盛りです。

長篠城で籠城戦を戦い抜いた城主の奥平貞昌はそのときはまだ21歳でした。

就職活動で企業エントリーに忙しい大学生と同じ年齢です。

そして、長篠城籠城軍の平均年齢は25.3歳という若さです。

若いとはいえ、当時は一人前の男として自分の命をかけて戦わなければならない年齢でした。

一方、寄せ手の武田軍は平均年齢38.1歳です。

信玄公の時代から仕えてきた重臣が平均年齢を上げているように見えます。

武田軍15,000人 38.1歳  織田軍30,000人 36.7歳 徳川軍8,000人35.4歳  籠城軍500人25.3歳 

平均年利34.8歳  これは主な将士64人を一覧にまとめたもので、他にもまだ名の知れた武将もいるのですが、設楽原の戦場を支配していた年齢的な雰囲気の手がかりになります。

そして、足軽も含めた総人数は 53,500人 でした。

きっと全体の平均年齢も、この将士たちの年齢とそれほど違わないのではないかと思っています。

こんな働き盛りの男たちが、長篠城を攻めたり、馬防柵を築いて鉄砲を三段撃ちしたり、騎馬で敵に襲いかかったりと、休む間もなく戦ったのです。

戦場となった設楽原は南北に流れる、ひとが飛び越せるほどの連吾川をはさんで、お互いの距離が200mほどしか離れていませんでした。

徳川・織田軍は敵を引きつけて鉄砲を放てば、ほぼ確実に倒せる距離であったことがわかります。

設楽原で決戦が始まる日の早朝に、長篠城の東を流れる宇連川の向こう岸の鳶ヶ巣山砦をはじめとした武田軍の5つの砦を酒井忠次を大将とする別働隊2000人が鉄砲500丁を使って急襲します。

設楽原で決戦が始まる日の早朝に、長篠城の東を流れる宇連川の向こう岸の鳶ヶ巣山砦をはじめとした武田軍の5つの砦を酒井忠次を大将とする別働隊2000人が鉄砲500丁を使って急襲します。

砦の武田軍は壊滅し、長篠城を開放しました。

5月21日の夜明けのことです。

そのことにより、設楽原にまで陣を進めていた武田軍は退路を断たれてしまい、武田勝頼は馬防柵ヘの突撃を命令しました。

そのときの各砦を守っていた武田軍の全勢力は2,270人。

その内訳は

久間山砦 総勢600人

 和気善兵衛、大戸民部、倉賀野秀景、原胤成の300名

 野洲浪人組 300人余

中山砦 総勢520人

 五味与惣兵衛 280人 名和無理之助 飯尾助友 飯尾祐国 名和田春継ら240人

鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで) 総勢500人

 武田信実 250人 小宮山信近 250人

姥ヶ懐砦(うばがふところとりで) 総勢350人

 三枝守友、三枝守義、三枝守光、草刈隼人助、宍戸大膳

君ヶ伏床砦(きみがふしどとりで) 総勢300人

 和田信業、長竹昌基、反町大膳

でした。

宇連川の向こうの岸の山には、武田兵庫頭信実(信玄の弟)以下各武将が陣を敷いた。5月20日、本体は設楽原へ進出したが、この部隊は押さえとしてここに残った。

5月21日の夜明け(太陽暦7月9日)夜明け、東三河の将士をひきた酒井忠次(吉田城主・豊橋市)はこの砦を急襲した。信実以下激しく戦ったが多数が討ち死にして追い落とされた。同時刻、武田軍本体も設楽原の織田・徳川軍の陣地に突入していった。

と、長篠城本丸の説明板が教えてくれます。

また、長篠城本丸にある別の説明板は次のように説明しています。

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。

この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣砦方面の火の手と銃声に驚き本体に戦闘開始を指令した。

5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ちとられ残兵は「長走り」の瀬を渡って本体に合流しようとした。その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり5つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。

酒井忠次(吉田)

先導

近藤秀用(井伊谷)鈴木重好(瀬戸)阿部定次(宗重)豊田秀吉(吉川)

菅沼定盈(野田)西郷家員(西川)牧野康成(牛久保)松平伊忠(深溝)

松平家忠(東条)松平清宗(竹谷)松平忠次(津平)松平康忠(長沢)松平真乗(大給)設楽貞道(川路)戸田重光(仁連木)奥平貞能(作手)本多広孝(田原)名倉信光(名倉)

織田軍目付

金森長近 佐藤則定 武藤次久

鉄砲頭 青山幸忠 加藤景村

この酒井忠次を大将とする別働隊は総勢4000人、鉄砲500丁という機動部隊です。

砦の武田軍の2倍の4,000人と500丁の鉄砲で全滅させてしまいます。

これにより籠城していた長篠城を救いました。

砦の戦闘が始まったタイミングで、武田軍は徳川・織田連合軍に突撃を始めます。

長篠・設楽原の戦場にいた53,500人の兵のうち、鳶ヶ巣山砦方面は6、000人、長篠城包囲軍2,000人として、その8,000人を差し引くと43,500人が設楽原で戦っていたことになります。

長篠・設楽原の戦場にいた53,500人の兵うち、鳶ヶ巣山砦方面は武田、徳川・織田の両軍で6、000人、長篠城包囲軍2,000人として、8,000人を差し引くと43,500人が設楽原で戦っていたことになります。

戦いの規模をイメージしやすくするために野球場とサッカースタジアムの収容人数を参考に説明いたします。

豊田市のトヨタサッカースタジアムの席数が44,380席、甲子園球場が47,400席なので、ちょうどそのくらいの人数が、幅200m、長さ2㎞ほどの細長い戦場で戦っていたことになります。

長篠・設楽原PAにある両軍の陣取り図

戦闘は、5月21日の明け方に始まり午後2時ごろに終わります。

武田軍は約10,000人の兵を失い敗北しました。

そして名のある武将もほとんどが戦死してしまいます。

一方、徳川家康・織田信長連合軍は、約3,000人の兵を失いました。

私は徳川・織田軍の死者が意外にも多いことに驚いています。

武田の騎馬隊をおびき出すために、足軽が馬防柵の外に出て騎馬隊をおびき寄せるときにやられたのではないかと想像していますが、やはり激戦だったことを物語っています。

長篠設楽原の戦いは、鉄砲が戦さの主力兵器として使用された最初の戦いです。

そして、徳川家康・織田信長連合軍の勝利は、その後の武田の衰退と徳川の台頭へとつながりました。

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