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写真:伊賀八幡宮は1470年に松平四代の松平親忠公が社(やしろ)を伊賀の国より三州額田郡井田村に移したことにはじまります。ピンチを乗り越えて勝利に導くパワースポットです。@岡崎市

伊賀八幡宮随神門と国旗
随身門

伊賀八幡宮は、1470年に松平四代の松平親忠(ちかただ)公が松平家の氏神として、武運長久、子孫繁栄を祈願するために伊賀の国より三州額田郡井田村に移したのにはじまります。

伊賀の国にちなんで伊賀八幡宮とよび、地名も伊賀と改めました。

三州とは三河のことです。

*岡崎市発行の「岡崎・史跡と文化財めぐり」より。

10倍の敵にもひるまず戦い、凌ぎに凌いでついには勝ってしまう。伊賀八幡宮はそんな奇跡に導く勝利のパワースポットです。

10倍の敵にもひるまず戦い、凌ぎに凌いでついには勝ってしまう。

これまでにそんな奇跡を何度も呼んで松平・徳川に勝利をもたらしました。

伊賀八幡宮はここ岡崎に遷されたときからすでにピンチを乗り越え勝利に導くパワースポットでした。

神意を自ら示したことのある伝説を持ち、松平・徳川に勝利を何度も授けたパワースポットはほかにはみつかりません。

それもそのはずで、松平親忠公は松平家の武運長久と子孫繁栄を願って建てた八幡宮です。

だから松平家(徳川家)以外の味方などするはずがありません。

今日では、古くから伝説となっているその御利益にあやかろうと多くの参詣者を集めています。

伊賀八幡宮東風の随神門

御祭神は

応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、

そして東照大権現(徳川家康公)。

伊賀八幡宮の略記には次のように記されています。

伊賀八幡宮の略記

伊賀八幡宮略記

御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

    東照大権現(徳川家康公)

 岡崎の観光名所としても名高い、伊賀八幡宮は、郷土の英傑である、徳川家康公をご祭神と仰ぐ松平・徳川家累代の祈願所です。

 家康公より五代さかのぼる先祖、松平四代の親忠公は、文明二年(西暦1470年)に、氏神として伊賀八幡宮を創建され、五年後に、氏寺・菩提寺として大樹寺を建てられ、いずれも松平・徳川家の勢力伸長に伴い境内整備がなされました。

 当宮の極彩色の現社殿や、蓮池などは、江戸幕府三代将軍家光公により整備され、主な建造物は昭和八年に国宝に指定されました。(現、国の重要文化財)

 先の大戦で焼失することもなく、勝運出世・開運発展の守り神の大きな御神徳にあやかろうと訪れる人々で、社頭は賑わいます。

織田信秀の大軍を松平軍が井田野で迎え撃ったときに起こった伝説をひとつ紹介します。

伊賀八幡宮には鳥居が動いて神意を示し松平兵に勇気を与えたり、伊賀八幡宮の杜から敵軍に向かって無数の矢が放たれたりしたといういくつかの不思議な出来事が伝わっています。

伊賀八幡宮随神像
随身像
伊賀八幡宮随神像
随身像

松平軍が伊賀八幡宮の北に広がる野原と田んぼだった井田野で敵の織田信秀軍(信長の父)を迎え撃つときに、伊賀八幡宮の鳥居が井田野のほうに一歩歩くように動いたのを松平の兵が見たのです。

それを見た松平の兵たちは勝利を確信して奮戦した結果、8000人の織田信秀(信長の父)軍に対して800人の松平軍が勝利したそうです。

また、伊賀八幡宮の方角から織田軍に無数の矢が放たれたという言い伝えもあります。

そのほかにも伊賀八幡宮は松平。徳川氏のピンチには鳥居を動かし神意を示して松平・徳川氏を勝利に導いたと伝わっています。

伊賀八幡宮拝殿
本殿
伊賀八幡宮境内から見る随神門

そんな三河兵の戦い方が、宮城谷昌光さんの「風は山河より」の第2巻にあります。

小説とは言え、調べも深いはずですから、きっとそうだったに違いないと思います。

さらに、「その戦い方は鉄砲の時代になってもさほど変わらなかったといえるであろう」。

「個の技に走らず個を主張しないがゆえに、この武装集団(三河武士)はかえって独特な個性を発揮したといえるであろう」。

と作品のなかで表現されています。.

勝因は三河武士の間に浸透していた理にかなったクレバーで伝統的な戦い方にあったようです。

三河兵はその練度が高かったと言えます。

宮城谷昌光さんの「風は山河より」では三河武士の強さの本質をさらっと表現されています。

伊賀八幡宮随神門の北西角の力神
力神
伊賀八幡宮随神門帳面
随身門正面

家康の祖父の松平清康が守山で亡くなってすぐ、織田信秀が岡崎に攻め入ってきたときのそれを井田野で迎え撃つ松平軍の防衛戦の様子です。

大河ドラマ「どうする家康」が放映されているので伊賀八幡宮は大混雑しているかと思って心配していましたが、駐車場にうまく車を停めることができました。

駐車場は無料です。

伊賀八幡宮の楓の種 プロペラのような赤い種

※宮城谷昌光著「風は山河より」は野田城菅沼家三代の物語です。

随神門の扁額は1602年に家康が額に入れて寄進した後陽成天皇による御神号宸筆の写しなのだろうか?、本物はたぶん本殿にあるかも。

家光公の時代に改めて頂いた御宸筆かもわかりません。

伊賀八幡宮オフィシャルページ

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