写真 寺社仏閣 徳川家康

写真:松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎ急速に勢力を拡大します。@豊田市

松平氏始祖、松平太郎左衛門親氏像

都から三河の松平郷に移り住んだのは後宇多天皇につかえた公家の在原信盛(ありわらのぶもり)といわれています。

1278 年〜1287 年頃のことだそうです。

その在原信盛の嫡男で松平郷主の在原信重のもとに徳川家康の祖となる親氏(ちかうじ)が婿に入りました。

徳川家康の八代前のことです。

松平氏家系図

在原家の婿となった親氏は父に当たる在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎます。

そして引き継いだ人や財産を生かして松平氏の勢力拡大を図りました。

道を作り、川に橋を架け松平城(郷敷城・ごうしきじょうと表記されることがあります)を普請します。

その城を拠点にして近隣の7つの村(田口、泰梨、岩戸、麻生、名之内、大林、毛呂など乙川沿岸一帯の地)を平定していきました。

大久保彦左衛門の三河物語では17名(みょう)(17の村)とされています。また、三河八代記古伝集にも中山十七名トテ七千貫の・・・とあるので最終的には17の村を押さえたようです。

戦国武将の時代には1貫文を2石程度としていたそうなので(ウィキペディア)、松平親氏は少なくとも1万4千石の大名レベルの経済力を持っていたことになります。時代が違うので貨幣価値も異なるのでもっと多いかもわかりません。

その頃から600年経ったいまも、それらの地名が残っています。

松平城跡
正面が松平城址

親氏が時宗の僧だったと伝わっていますが、もし平凡で普通のお坊さんだったら在原家に婿に入ったとしても近隣を平定しようなどという考えがすぐに湧き上がるとは思えません。

仮に親氏に近隣を平定する気持ちがあったとしても、実戦で使える戦略・戦術の知識や経験がないとそれは到底不可能に思えます。

親氏を婿に迎えた松平太郎左衛門信重(在原信重)は弓馬や連歌に秀でた領主だったそうなので、頭脳明晰で人を見る目は持っているはずです。

ましてや、信重が自分の家督(松平郷)を譲ろうと考えた男である親氏は、そのメガネにかなった男だったわけですから、そういった話を二人は掘り下げて語り合っていたとしても何ら不思議ではありません。

勢力拡大のために近隣の豪族と戦う心の準備はすでに整っていたと思います。

また、親氏が領地拡大の考え方や戦い方の知識と経験を持っているからこそ連戦連勝という結果を残せたのでしょう。

単にラッキーなだけでは松平郷の周辺を取り巻いている7つもの近隣豪族を平定してしまうことなどは無理ですから、親氏は相当な実力と戦いの経験を持っていた男だったことが想像できます。

それに、勝算があるからこそ戦ったのでしょう。

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指図しているような松平太郎左衛門親氏

そういう風に考えてみると、時宗のお坊さんになって父の有親(ありちか)とともに諸国を放浪する以前は古い資料にも見えるとおり、世良田を称する武家の親子だったわけなのでストンと腑に落ちます。

親氏願文

天下和順          天下秩序を保ち

日月清明          日月は天地を清らかに照らす

風雨時以                               吹く風も降る雨もほどよく

災厲(さいれい)不起   災いや疫病は起きず

国豊民安         国は豊かで民は安らかに暮らす

兵戈無用         兵隊も武器も用いることはない

務修禮穰         人を思いやり治めることに力を尽くす

松平親氏公願文

松平太郎左衛門親氏はそうなることを深く願い願文としたのでしょう。

訳文は筆者です。

同じ文が偈文(げもん:仏教の真理を詩の形で述べたもの)として知恩院HPに説明されています。

https://hukyoshikai.chion-in.or.jp/houwa/monthly/2701/

親氏が僧として必要で大切な教養を身につけていたことがわかります。

親氏は在原家の婿になり、当主の信重の期待通りに男子が生まれ太郎左衛門家(在原家)は存続します。

親氏は在原家の婿(むこ)になり、当主の信重の女(むすめ)との間に期待通り男子が生まれ太郎左衛門家(在原家)は存続します。

在原信重も松平太郎左衛門を名乗っていたので、男子が誕生して松平太郎左衛門家(在原家)の家督と血脈が子孫へと引き継がれていきます。

親氏は、女(むすめ)の婿にと在原家に招いた信重の期待に応えたのです。

子孫繁栄はもとより、近隣を従わせて治める力量は当主の信重が見込んでいた以上だったのではないでしょうか。

松平東照宮を眺める松平太郎左衛門親氏

在原氏の墓所のある在原山への入口には、応永(1394-1428)の頃、諸国を流浪中の遊行僧、徳阿弥が信重の元に入婿し松平太郎左衛門親氏を名のって松平家発展の始祖となりました。と説明されています。

在原信盛、信重、親氏室水女墓

在原氏の墓所のある在原山への入口には、応永(1394-1428)の頃、諸国を流浪中の遊行僧、徳阿弥が信重の元に入婿し松平太郎左衛門親氏を名のって松平家発展の始祖となりました。と説明されています。

在原氏の墓所

松平郷々主

在原氏の墓所

 松平氏の遠祖は在原氏を称する公家で、康永年間(1342-1345)に都から三河に下り松平郷を開いたと言われています。

松平郷に住した初代は在原信盛といい、二代信重は弓馬と連歌に長け、家は栄え、富を蓄え、その名は三河一帯に広く聞こえたといわれています。

 応永(1394-1428)の頃、諸国を流浪中の遊行僧、徳阿弥が信重の元に入婿し松平太郎左衛門親氏を名のって松平家発展の始祖となりました。この地には在原信盛、信重と親氏の室、水女の墓所があり在原山と呼ばれています。

豊田市教育委員会

この説明のとおりだとすると、松平2代太郎左衛門泰親、3代信光から家康にまでも在原氏の血が流れていることになります。(3代信光は太郎左衛門を継がず、兄の信宏が継いでいます)。

また信光を3代とするのは、家康に続く松平宗家としての3代目にあたるからです。

この時点で松平氏は松平太郎左衛門家と徳川将軍家に続く松平宗家に分かれました。

松平郷の在原氏は都では天皇に仕える公家ですから、きっと伊勢物語などで有名な在原業平の血を引く末裔なのでしょう。

ただ、在原業平は825年-880年の人物ですから松平郷領主の在原氏からは500年以上前に活躍した人物になります。

在原信重を”弓馬と連歌に長け”と表現していますが、とくに連歌は都人(みやこびと)であった公家の血筋を誇りとして大切に受け継ぎ守ってきたと思います。

諸説あるようですが、在原姓を名乗っているのですからきっとそうなのです。

もしかすると、カキツバタの季節には先祖の在原業平を偲び有名なカキツバタの歌を詠んだ場所、知立市の八橋まで一族揃ってピクニックに出かけるならわしが当時の太郎左衛門家にはあったかもしれませんね。(^^)/

今から600年以上昔のお話しです。

松平東照宮親氏公600年祭立て札
松平東照宮拝殿横に掲げて保存されている親氏公600年祭の立て札 

松平太郎左衛門親氏の墓は、在原氏の墓所ではなく近くの高月院にあります。

1377 年に親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから松平氏の菩提寺となっています。

その関係によるもと思いますが高月院に親氏の墓が在ります。

また、信光明寺と大樹寺にも親氏の墓があります。

親氏が在原氏の墓に入らなかったのは、婿養子としての遠慮があったからのでしょうか。

http://www.matsudairagou.jp/

三河八代記古伝集に親氏が林添の藪田源五忠元を攻めたときの様子の記述を見つけたので転記しておきます。

藪田ノ源五御退治之亊

其ノ頃藪田源五忠元トテ気質偏強二シテ喧嘩ヲ好ム若者有リ

松平近キ林添の里ニ住シ家来大勢抱ヘ置キ近辺ノ村々ヲ押領シ雅意ヲ働キ

富貴ニホコリ 剰へ(あまつさえ)親氏公ニ對シ無礼ヲ尽クス亊度々ニ及ブト雖(いえど)モ

若輩タルニ依テ免ジ置ルゝ所ニ 度重シハ 御堪忍成リ難ク

或時御人数をスグッテ御鷹野ノ体ニ出立 彼ガ屋家ニ不意ニ押掛ケラレ即刻忠元ヲ討果シ

俄(にわか)ニ騒動スル處ノ家来大形討チ

捕リ残ル奴原 諸方ヘ追散シテ松平ニ戻リ玉ヒケル

三河八代記古伝集

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