歴史

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浜名湖の北にある龍潭寺は井伊家の菩提寺です。浜松城と並んで浜松屈指の観光スポットです。@浜松市

井伊家の菩提寺龍潭寺は浜名湖の北にあります。小堀遠州の美しい庭が特に有名です。ドラマにもなった女城主直虎が井伊谷城を出て母の元に移り住んだと伝わる松岳院跡もあります。今では浜松城と並んで浜松屈指の観光スポットです。井伊家・宗良親王 菩提寺萬...
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写真:御器所にある尾陽神社は尾張藩祖初代徳川義直と14代慶勝を祀る神社。@名古屋市

御器所(ごきそ)にある尾陽神社は尾張藩祖初代徳川義直と14代慶勝を祀る神社です。ききなれない尾陽という名は、初代尾張藩主徳川義直公を尾陽公と呼ぶからです。名古屋市昭和区の閑静な住宅街にあり住宅の区画が大きくゆったりとしているので落着いた雰囲...
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写真:高座結御子神社の高座稲荷神社に伝わる豊臣秀吉のエピソード。

高座稲荷神社に参っていた秀吉。熱田神宮の北にある高座結御子神社にある高座稲荷神社には現代に伝わる豊臣秀吉のエピソードがあります。なんと高座稲荷神社に豊臣秀吉が子供のころにお参りに来ていたのです。母さん(大政所)に連れられてお参りしたとことが...
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写真:熱田神宮では車を東西の駐車場に停めてしまうと、上知我麻神社と南新宮社のお参りを忘れやすい。

今日車を停めた熱田神宮の駐車場は東門です。熱田神宮東門鳥居熱田神宮南門鳥居2023年熱田神宮に年の瀬のご挨拶にやってまいりました。お詣りのときのクルマを停める駐車場は東西南とあるのに、ほとんど東門に停めます。熱田神宮まで来る方角によって入り...
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父織田信秀が築城した末森城をもらわなかった信長@名古屋市

末森城が要らなかった信長。父織田信秀が築城した末森城を信長はもらいませんでした。末森城は織田信秀(1510頃-1552)が天文17年(1548)に築いた城です。信秀は織田信長(1534-1582)の父でこの末森城で亡くなっています。物語や映...
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写真:浜松城は戦いに明け暮れた時期の家康の拠点。@浜松市

徳川家康が三河から東に勢力を伸ばすために築いた出世城「浜松城」。家康がそれまでの居城岡崎城から浜松城に移ってきたのは元亀元年(1570年)でした。そして駿府城に移るまでの14年間ここ浜松に在城しています。家康はその間家臣たちと共に成長し実力を積上げ蓄えていきます。
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写真:徳川幕府初期の政(まつりごと)に大きな影響力を持った春日局。彼女の念持仏が大樹寺に安置されています。@岡崎市

春日局の念持仏が徳川家の菩提寺の大樹寺にあります。徳川幕府初期の政(まつりごと)に大きな影響力のあった春日局(かすがのつぼね)。その彼女が毎日手を合わせて拝んでいた念持仏(ねんじぶつ)があります。それが愛知県岡崎市の大樹寺に客仏として安置さ...
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写真:大阪城の風景が美しい。そしてやがて悲しい。

大阪城は美しくてやがて悲しい。大阪城の天守閣と堀の石垣の風景がとても美しい。北側の大阪城ホールから大阪ビジネスパークにかけての風景は大阪の歴史そのままです。高層ビルは近代的な大阪を表し、一方の大阪城は悲しい歴史を秘めています。新しい街と大阪...
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写真:徳川四天王のひとり井伊直政は浜松の井伊谷生まれです。@浜松市

井伊直政赤備@どうする家康浜松大河ドラマ館徳川四天王のひとり井伊直政(1561-1602)は浜松の井伊谷生まれです。彼の生まれ故郷井伊谷(いいのや)は浜名湖の北、浜松市引佐町井伊谷にあります。井伊家は南北朝の時代に後醍醐天皇の皇子である宗良...
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写真:大坂夏の陣に散った豊臣方の重臣、木村長門守重成を包んだ血染めのすすき@彦根市

木村重成を包んだススキです。大坂夏の陣に散った豊臣秀頼の重臣木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)ゆかりの血染めのすすきが、彦根市の井伊神社本殿脇に植えられています。討ちとった木村重成を包んだススキです。説明板にはこう書いてあります。...
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写真:小説家の今東光(こんとうこう)さんは大阪城の石垣を見て男の城といった。

井上博道さんの写真をまねて撮った写真大阪城を男の城といった作家の今東光さん。産経新聞社時代の司馬遼太郎さんが企画出版した「美の脇役」の中での言葉です。今東光さん(1898-1977)は大阪城の石垣を見て男の城だと感じたようです。それは、ご自...
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外堀を埋めるとはどんな意味ですか?。難攻不落の大坂城外堀の美しい石垣の眺めと紅葉。@大阪市

城内から見た大阪城南外堀外堀を埋めるとは。大坂の陣で徳川方が使った戦略を伝える言葉です。400年以上前の大坂の陣での出来事、「外堀を埋める!」。難攻不落の名城「大阪城」現在の外堀ではなく、もっと広いエリアを囲っていました。外堀を埋める日常よ...
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苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

苗木藩は幕末まで続いた藩です。その苗木城は苗木藩遠山氏の居城です。遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの...
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秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)の墓所がある太融寺@大阪市北区

太融寺(たいゆうじ)には淀殿(茶々)(1569-1615)の墓があります。淀殿の墓は明治時代のはじめまで大阪城の近くの城東区鴫野(しぎの)にありました。しかし。明治10年11月、そこに城東練兵場が造成されるにあたり太融寺に移祀されました。(...
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写真:佐和山山麓の龍潭寺入口に座る石田三成像 @彦根市龍潭寺

彦根龍潭寺の石田三成像は、佐和山城山麓の龍潭寺(りょうたんじ)入口にあり、京都大阪の方角を向いて座っています。石田三成の居城、佐和山城へは上の写真に見える入口から入ります。龍潭寺の堂々とした山門をくぐります。そこからまっすぐの所にある観音堂...
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「三河本多一族」特別展を安城歴史博物館に見に行ってきました。@安城市

葵の紋を本多氏から貰った松平氏。それは噂ではなくて本当でした。特別展「三河本多一族」を安城市歴史博物館まで見に行ってきました。歴史博物館がある安城城址は、本多忠勝のお父さんもお祖父さんも織田との戦いのときに、ここでなくなっているという事実が...
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元禄赤穂事件で命を落とした吉良家の使い手 清水一学の墓が故郷の円融寺にある。@西尾市

歌川国芳 忠臣蔵十一段目 夜討之図 ウィキペディアより元禄赤穂事件(忠臣蔵)で命を落とした吉良家の剣の使い手、清水一学(1703年25歳没)は、そのとき赤穂浪士から主君、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を守り討ち死にした吉良家の...
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若山牧水 像 @新城市 鳳来寺山表参道

鳳来寺山参道の若山牧水像9月17日は若山牧水 1885-1928 歌人。の命日です。存命なら138歳です。鳳来寺山参道の若山牧水像には徳利や酒杯が詰め込まれています。長年にわたる度を超えた飲酒が彼の命を奪いました。しかし悔いは無いような表情...
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東京の三河稲荷神社は、家康の江戸移封の折にどうしても三河から連れてきたかった由緒ある神社です。@文京区

三河稲荷神社は縁起の良い神社です。東京の丸ノ内線本郷三丁目駅近くにあります。家康が1590年の江戸移封の折に、どうしても三河から連れてきたかった由緒ある神社です。三河一向一揆のときに20歳の家康は豊田市の隣松寺(りんしょうじ)に陣を敷き、目...
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松平家初代親氏の子で酒井家初代広親の血筋、徳川四天王酒井左衛門尉家と徳川内政の重鎮酒井雅楽頭家の上屋敷跡を歩いた。@千代田区大手町

左衛門尉家上屋敷跡の風景酒井雅楽頭家(さかいうたのかみけ)と酒井左衛門尉家(さかい左衛門尉家)の上屋敷跡は東京駅近くの超一等地にあります。今日は、その東京駅から歩いて数分の大手町にある酒井雅楽頭家(うたのかみけ)と酒井左衛門尉家(さえもんの...
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父、松平広忠の廟所に8歳の竹千代(家康)は松を植えた。その木は東に向かって大きく枝を伸ばした。松應寺。@岡崎市

松應寺横丁松平広忠の廟所松應寺に8歳の竹千代(家康)は松の木を植えた。その松は東に向かって枝を伸ばした。徳川家康公 父君松平広忠公御廟所(岡崎市指定文化財)この御廟所は、家康公が父君供養のために創った国内有数の格式と規模を誇る霊廟で、文化財...
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