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写真:大阪城の天守閣と堀の石垣の風景がこんなに美しいとは思っていなかった!

大阪城の天守閣と堀の石垣の風景がこんなに美しいとは思っていなかった!。

正直なにいうと、なめていました。

申し訳ありませんでした。

大阪城北側の大阪城ホールから大阪ビジネスパークにかけての新しい街と大阪城の見える景色と融合が、未来の大阪の姿なのでしょう。

大坂冬の陣ではこの写真の堀の向こう左側遠くにあった備前島から大砲の弾が昼夜問わず城内に打ち込まれた。

この水上バスの写真の右から左にたくさんの砲弾が川や堀を越えて大阪城めがけて飛んでいった。

こんなに強固で大きな堀と石垣に囲まれた城を攻めるのには、堀を渡って石垣をよじ登るような攻め方や、内通者によって城門を開けさせるといった戦術では防御力の高い大阪城には通用しそうにない。

そのことは、これまで豊臣政権下で大阪城内にいて政務に携わっていた家康は熟知しています。

どう攻めるかを考えながらその場に立ってみると、私も大砲を撃ち込む選択をすると思いました。

読者の方も、きっとそれしかないと思います。

家康は城内をイメージしながら考えたと思います。

城のどこに向かって大砲の弾を落とせばよいのかを。

 

 

大阪城の備前島に大砲を据えたのは重量のある大砲は水運を利用して運ぶ必要があるから。

ウィキペディアより

また、備前島に大砲を据えたのは重量のある大砲は水運を利用して運ぶ必要があるからです。

大阪城天守下の豊臣秀頼や淀殿がいる御殿からの距離も併せて考えると必然的にそうなります。

織田信長がしかけた戦のブレイクスルーを長篠設楽原の戦いで目の当たりにした家康は、城攻めに対して泥臭い従来型の戦(いくさ)はしなかった。

10年籠城できるとされた城は最新兵器と大阪城をよく知る家康の前にあっけなく落城した。

大阪城

石山本願寺のあとに豊臣秀吉が、天正11年(1583)から10数年をかけて築いたものですが大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)の2度の戦闘を通じて消失してしまいました。

そのあと徳川幕府が、西国・北陸の諸大名64家に命じ天下普請として元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年の歳月をかけて、石垣、建物とも徹底的に築き直しました。

今日、私達が見る大阪城は石垣や堀や建物も徳川時代に築かれたものです。

(天守閣は昭和6年の復興)。

なお、再築するのに使用した石垣の石は50万個以上にのぼると推定されています。

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