大阪城は美しくてやがて悲しい。
大阪城の天守閣と堀の石垣の風景がとても美しい。
北側の大阪城ホールから大阪ビジネスパークにかけての風景は大阪の歴史そのままです。
高層ビルは近代的な大阪を表し、一方の大阪城は悲しい歴史を秘めています。
新しい街と大阪城の美しい風景は、大阪のそんな歴史をずっと感じさせるのでしょう。
大坂冬の陣ではこの写真の堀の向こう左側遠くにあった備前島から大砲の弾が昼夜問わず城内に打ち込まれた。
この水上バスの写真の右から左にたくさんの砲弾が川や堀を越えて大阪城めがけて飛んでいった。
こんなに強固で大きな堀と石垣に囲まれた城を攻めるのには、堀を渡って石垣をよじ登るような攻め方や、内通者によって城門を開けさせるといった戦術では防御力の高い大阪城には通用しそうにない。
そのことは、これまで豊臣政権下で大阪城内にいて政務に携わっていた家康は熟知しています。
どう攻めるかを考えながらその場に立ってみると、私も大砲を撃ち込む選択をすると思いました。
読者の方も、きっとそれしかないと思います。
家康は城内をイメージしながら考えたと思います。
城のどこに向かって大砲の弾を落とせばよいのかを。
大阪の冬の陣で家康が大阪城近くの備前島に大砲を据えたのは、城に近いことと水運を利用して大砲を運ぶ必要があったから。
また、備前島に大砲を据えた理由は大阪城まで距離が近いことがあります。
そして大砲の射程距離と威力の最大化を考えてのことです。
大切なことは、重量のある大砲は水運を利用して運ぶ必要があったのです。
大阪城天守下の御殿に豊臣秀頼や淀殿がいました。
御殿からの距離も併せて考えると必然的に備前島に大砲の設置が合理的です。
織田信長の戦い方を長篠設楽原の戦いで家康は目の当たりにしました。
彼は、大阪城攻めを行うに当たって犠牲者が多く出る従来型の戦い方はしたくなった。
10年籠城できるとされた城です。
しかし、大砲と大阪城のことをよく知る家康の前にあっけなく落城してしまいました。
大阪城
石山本願寺のあとに豊臣秀吉が、天正11年(1583)から10数年をかけて築いたものですが大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)の2度の戦闘を通じて消失してしまいました。
そのあと徳川幕府が、西国・北陸の諸大名64家に命じ天下普請として元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年の歳月をかけて、石垣、建物とも徹底的に築き直しました。
今日、私達が見る大阪城は石垣や堀や建物も徳川時代に築かれたものです。
(天守閣は昭和6年の復興)。
なお、再築するのに使用した石垣の石は50万個以上にのぼると推定されています。
国立公文書館HP https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_04