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写真 徳川家康 歴史

松平家初代親氏の子で酒井家初代広親の血筋、徳川四天王酒井左衛門尉家と徳川内政の重鎮酒井雅楽頭家の上屋敷跡を歩いた。@千代田区大手町

酒井雅楽頭家と左衛門尉家
左衛門尉家上屋敷跡の風景

酒井雅楽頭家(さかいうたのかみけ)と酒井左衛門尉家(さかい左衛門尉家)の上屋敷跡は東京駅近くの超一等地にあります。

今日は、その東京駅から歩いて数分の大手町にある酒井雅楽頭家(うたのかみけ)と

酒井左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の上屋敷跡を歩きます。

この両家は、徳川家康の先祖からの重臣です。

この酒井家両家は、徳川家康の先祖から続く重臣です。

両家の屋敷跡をゆっくりと歩いてみると、徳川家に繋がる家格とその伝統を強く感じます。

そのすごさは、なんといってもその立地にあります。

両家の屋敷跡は、東京駅に近い江戸城大手門のすぐ前なのです。

それは、酒井家両家の家格の高さに加えて、過去の戦いでの強さや先祖から変わらぬ忠誠を表しています。

そして徳川家康の重臣と言っても間違いありませんが、

それにも増して、そもそも酒井家は先祖代々松平宗家の重臣で家老格なのです。

それには誰も何も異論を差し挟むことのないほどの両家の貢献度の高さがあります。

徳川四天王の酒井忠次は酒井左衛門尉忠次と呼ばれます。

少し詳しく見ると、左衛門尉家は、酒井家の祖、酒井広親(さかいひろちか)の長男の家系です。

また、酒井忠次の正室は、家康のお祖父さんの松平清康の娘、碓井姫で

家康の叔母さんになります。

そうすると、酒井忠次は家康にとっては、義理の叔父さんにあたります。

酒井雅楽頭家は、酒井広親の二男の家系が継いできました。

一方の酒井雅楽頭家は、酒井広親の二男の家系が継いできました。

もともとは、酒井雅楽助(さかいうたのすけ)を名乗っていました。

そして次のような有名なエピソードがあります。

そのエピソードとは、

あるとき家康の祖父、清康が縁起の良い是の字を呑む夢を見てその夢解きを求めました。

それは、是の字は、日の下に人と書くので子孫に天下人が出ます。

そういう縁起のいい夢解きをしたお墓参がいました。

それに気を良くしして清康が龍海院「是字寺」(ぜのじでら)を建てたのですが、

すでに松平家には大樹寺という菩提寺がありました。

そんなことがあって、酒井雅楽助正親(さかいうたのすけまさちか)に清康が是字寺を与えました。

今でもそこには、清康から是字寺をもらった5代酒井雅楽助正親の墓があります。

酒井左衛門尉家上屋敷跡風景

繰り返しますが、酒井雅楽頭家と左衛門尉家は

徳川家康の認める信頼と貢献実績があるからこそ江戸城の大手門前に屋敷を構えているのです。

酒井雅楽頭家と左衛門尉家は家康の側近中の側近で、

そんな家康の何代も前から松平を支えてきた松平宗家の家老の家柄です。

これは個人的な感覚ですが、酒井雅楽頭家は昔から内政面で松平家に起用されてきたように思います。

一方の酒井左衛門尉家は四天王の酒井忠次が特に有名で、家康の父松平広忠の時代ぐらいからその存在感を

現してきたように思っています。

それにしても、徳川家康からの酒井家両家への信頼のほどが、この屋敷の場所とその広さでわかります。

御江戸大名小路絵図嘉永2-文久2(1849-1862)刊 
国立国会図書館蔵をトリミングしています。

御江戸大名小路絵図では、酒井雅楽頭家と酒井左衛門尉家が道を挟んで並んでいます。

御江戸大名小路絵図を見ると、酒井雅楽頭家の上屋敷と酒井左衛門尉家の上屋敷が道を挟んで並んでいます。

また雅楽頭系の越前敦賀藩主酒井右京亮(うきょうのすけ)家の屋敷も現在の皇居外苑にあったことがわかります。

この江戸末期は、雅楽頭家は姫路藩、左衛門尉家が庄内藩、右京の亮は敦賀藩(定府)になります。

酒井氏は松平家の始祖松平親氏(家康の8代前)の血をひいています。

酒井氏は松平家の始祖松平親氏(家康の8代前)の血をひいています。

それで酒井氏は家康と先祖が同じであると言われています。

まだ三河で家康を支えていたころの酒井家両家は

家康やその先祖と一緒に必死で生きていました。

しかし、江戸の屋敷跡を歩いてみると、修羅場を何度もくぐってきた両家の歴史の重さが静かに伝わって来ます。

そんなパワーを感じながらゆっくりと歩いています。

よく知っている人が出世して雲の上の人になってしまったような気がする

筆者はカメラを持って三河エリアによく出かけるので、

いたるところに痕跡が残る、黎明期の徳川家と酒井両家にはとても親しみを感じています。

そんなこともあってか、ここを歩くと、よく知っている親しい人が、

自分の知らないうちにすっかり出世してしまって、

信じられないほどの雲上人になってしまったように感じて少し寂しい気分になります。

それは仕方のないことですが、ひとり自分だけが時代に取り残されてしまったような気分になってしまうのです。

左衛門尉家上屋敷横の神田橋

酒井雅楽頭家上屋敷の大手門前の風景

酒井雅楽頭家上屋敷前にあった立札が、酒井雅楽頭のあだ名になってしまったことが今に伝わっています。

それは、たまたま雅楽頭が「下馬将軍」とあだ名されたことです。

何といっても、酒井雅楽頭家のその屋敷が、江戸城の大手門前にあり、

そこには「下馬」の立札が立っていたからです。

しかし、そんな話が伝わるこの場所は、いまでは世界有数のビジネス街、江戸城大手門前の一等地です。

酒井雅楽助家上屋敷の中庭にあった将門塚

東京都教育委員会が設置した説明によると、平将門の首塚は

酒井雅楽頭の屋敷があった当時からこの場所にあり、

何とその当時には中庭にあったそうです。

東京都指定旧跡

将門塚

神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強気を挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。

今を去ること1075年ほどの昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして板東八カ国を平定、自ら平新皇と称して政治の改革を図りましたが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年38歳、世にこれを天慶の乱といいます。

その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられました、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟りをなすため徳治2年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。

天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い板東では国内の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なく、その貧窮は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷士の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。

江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達安芸と原田甲斐の殺害された場所でした。明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和36年(1961)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和3年(2021)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。

将門塚は神田明神・創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、5月の神田祭の際には必ず鳳輦神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。 

史蹟 将門塚保存会

江戸総鎮守 神田明神

東京都教育委員会の説明版も要約された説明内容で建てられています。

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