太融寺(たいゆうじ)には秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)(1569-1615)の墓があります。
淀殿の墓は明治時代のはじめまでは、大阪城のすぐ北にある城東区鴫野(しぎの)というところにありましたが、明治10年11月、そこに城東練兵場が造成されるにあたり太融寺に移祀されました。(太融寺碑文)
淀殿の墓所を太融寺とした理由は、大坂の陣に於いて寺が豊臣方に味方した経緯があって、またその縁が深いことに拠るものです。
淀殿が1615年の大坂夏の陣で亡くなってから1877年(明治10年)までに262年もの年月が経っているのですが、城東練兵場の造成にあたってそのことに関係する人の中に、大坂の陣のときの寺と豊臣方との関係などを知る人が居り、そのときの関わりなどを疎かにせずに、淀殿の墓が太融寺に遷されたことに時代を超えていささかの感動を覚えます。
淀の方(永禄10、1567~元和元、1615)
豊臣秀吉の側室、浅井長政の長女、母は織田信長の妹お市の方。
浅井氏の滅後、秀吉に養われ、天正17年淀城に入る。淀殿、淀の方とよばれた。
淀君は後の俗称。秀頼を生み、秀吉没後は大阪城に拠り豊臣方の中心的人物となる。
大阪夏の陣に敗戦、秀頼と共に自刃した。
法名を大虞院英岩と寺伝にいう。明治10年城東鴫野より当時に改葬された。
墓の石塔が焼け焦げたように見えるのは昭和20年の戦災により太融寺の塔堂伽藍の一切が消失してしまったときに淀殿の墓も焼けてしまった名残と思われます





高野山真言宗佳木山太融寺HP https://taiyuji.net/01.html
現在の城東区鴫野は大阪ビジネスパークと呼ばれる高層のビルが建ち並ぶ大阪の新しいビジネス街になっています。