春日局の念持仏が徳川家の菩提寺の大樹寺にあります。
徳川幕府初期の政(まつりごと)に大きな影響力のあった春日局(かすがのつぼね)。
その彼女が毎日手を合わせて拝んでいた念持仏(ねんじぶつ)があります。
それが愛知県岡崎市の大樹寺に客仏として安置されています。
春日局は徳川家光公の乳母(うば)となります。
彼女は家光公を三代将軍にまで育てあげた徳川幕府初期の功労者です。
幕府の政(まつりごと)にも深く関わっていました、
そのようなことから、歴史書や物語の中によく登場します。
そういう背景もあり彼女の名前を聞いたことがない人はないと思います。
それに、従二位と位階が大変高女性でした。
歴史上、女性としては北条政子などと並ぶ最高位にありました。
それは、なんと加賀100万石の祖、生前の前田利家公と同じ位階の従二位です。
その春日局の*念持仏が松平家(徳川)の菩提寺大樹寺に安置されています。
春日局の念持仏は室町時代に製作された寄木造(よせぎづくり)の地蔵菩薩像です。
眼には玉眼が施されています。
*念持仏(常に自分の居間に安置し、また携帯して念仏し供養する仏像のこと)
地蔵菩薩とは
大地のように広大な慈悲で生あるものすべてを救うという菩薩。
釈迦(しゃか)の入滅後、弥勒(みろく)菩薩が如来(にょらい)として現れるまでの無仏の間,衆生を救済するとされる。
菩薩でありながら一般に僧形で、右手に錫杖(しゃくじょう、左手に宝珠をもつ。
日本では平安時代からひろく信仰され、とくに子供の守り仏とされる。
春日局は徳川家光公の乳母として、毎日このの念持仏に手を合わせていました。
春日局は徳川家光公の乳母として、毎日この地蔵菩薩に手を合わせていたのです。
確かに念持仏は地蔵菩薩です。
頭髪は短く僧形で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っています。
春日局が家光公の乳母として、子供の守り仏とされる地蔵菩薩拝んでいました。
そんなことを思うと、家光公の乳母である彼女の思いが強く伝わってきます。
春日局のこの念持仏は、徳川幕府初期のあらゆる出来事を聞いていたはずです。
日々の祈りを通し、その思いを受け止めてきた地蔵菩薩像です。
春日局(1579-1642)三代将軍家光の乳母(うば)
名は福、父は斉藤俊三、母は稲葉道明の娘、
稲葉佐渡守正成に嫁したが、1604年(慶長9)
家光が生まれると板倉勝重について乳母となる。
夫の正成は幕府に召されたが これを辞退し局を
離別した。局は家光をよく保育し秀忠の後継
としたことは有名である。大奥を統轄し大きな努力
を持ち内外に畏怖された。1639年(寛永6)
朝廷と幕府の融和のために参内したがその効は
なかった。晩年 江戸湯島に天澤寺(てんたくじ)を建てた。
その墓は東京都本郷の麟祥寺にある。
平成十年八月地蔵盆の日 大樹寺六十一世
念阿識
春日という名は朝廷参内の折に下賜された名前で本名は斎藤 福。
父は、美濃国守護代斎藤氏の一族で明智光秀の重臣だった斎藤利三です。
母は稲葉一鉄の娘である「康」と伝わっています。
春日の名は、朝廷から賜りました。
彼女の出身地(生まれ故郷)が父の居城のあった兵庫県丹波市春日町だったからと思われます。
春日局は丹波の国「黒井城」の姫として生まれています。
本能寺の変後、光秀の重臣であった局の父斎藤利三は羽柴秀吉に討たれてしまいます。
それからは、母方の親戚である公卿の三条西家で養育されています。
ここで彼女は公卿の素養である書道・歌道・香道等を身につけます。
彼女は美濃国の守護代斎藤一族の出で、血筋がよい家柄の姫として生まれています。
三条西家で身につけていた高い教養が彼女の葺きでした。
それが、家光公の乳母として家康公が考えいた条件を満たしたのだと思います。
春日局と南光坊天海の関係について想像すること
春日局の念持仏の地蔵菩薩像は見るからに美しく由緒ありげな姿です。
局の元にやってきたのはいつ頃なのでしょう。
気になりますが分かりません。
きっと幕府に家光公の乳母としてに出仕した頃に手に入れたものでしょう。
どこかの有力な人の伝(つて)によって彼女の元にやってきたことが考えられます。
南光坊天海も春日局同様に地蔵菩薩を信奉していたと伝わります。
江戸にその地蔵菩薩像が残っているようです。
もしかしたら天海から春日局に贈られたのでしょうか。