佐和山城山麓の龍潭寺(りょうたんじ)入口にある石田三成像は頭脳明晰な実務家を彷彿とさせる表情で京都大阪の方角?を向いて座っています。



石田三成の居城、佐和山城へは上の写真に見える入口から入り、龍潭寺の堂々とした山門をくぐります。
そこからまっすぐの所にある観音堂を右に折れて、城があった佐和山の頂上まで登ります。
三成の時代には龍潭寺はまだありません。
この辺りの佐和山の山麓に三成の屋敷を含め、秀吉から与えられた20万石ほどもあるこの地を治めるための機能が集まっていたと想像できます。
龍潭寺の山門の柱には、佐和山城跡までの地図が貼り付けられています。
彦根の龍潭寺は関ヶ原の合戦の後に井伊家がここに襲封された1600年に浜松の井伊谷にある龍潭寺の分寺として井伊直政により建立されました。
龍潭寺は浜松市の井伊谷(いいのや)にある曹洞宗妙心寺派の寺で、井伊家の菩提寺です。
関ヶ原の合戦後に彦根に国替えとなった井伊家は佐和山城を解体しその資材を再利用することで彦根城の築城を急いだと聞いたことがあります。
またこの龍潭寺の建造にも使われたそうです。
石田三成公は永禄3年(1560年)長浜市石田町に生まれる。
天資聡明、観音寺での真心の献茶が出世の糸口となり、秀吉公に見込まれて長浜城で
錬成され、次々に出世し僅か26歳で5奉行の筆頭に登った。
秀吉の日本国平定に際しては東奔西走抜群の功績を挙げ、水口城主から佐和山城
23万石の城主となったが、その希に見る温情施政が住民の徳望を集めた
ことは、その没後密かに祠られた夥しい石田地蔵によっても偲ばれる。
大河の赴くところその帰趨は自ずから明らかであった関ヶ原の一戦に敢然立って潔く
散った最後は誠に壮烈そのもの、まさに武士の鑑というべきである。
時に年41才慶長五年(1600年)の秋であった。
豊公より受けた恩義を忘れず終始一貫真心の生涯を送られた美徳は末永く称えられて
世の模範となる。まさに智仁勇兼備の英傑として郷土に栄光を放つ。
ここに有志相計って、公ゆかりのこの地に像を建て長くその遺徳を顕彰しようとする次第である。
昭和57年(1982年)5月
彦根石田三成公顕彰会建之
原型製作所 京都市 小谷 謙
鋳造者 八日市市 川添美術鋳造所
老中本多正信との政争に敗れた大久保忠隣(小田原城城主)は改易後この龍潭寺に幽居の身となり、ここで亡くなっています。