井伊家の菩提寺龍潭寺は浜名湖の北にあります。
小堀遠州の美しい庭が特に有名です。
ドラマにもなった女城主直虎が井伊谷城を出て母の元に移り住んだと伝わる松岳院跡もあります。
今では浜松城と並んで浜松屈指の観光スポットです。
井伊家・宗良親王 菩提寺
萬松山 龍潭寺(りょうたんじ)
当時の歴史は古く、天平5年(733)行基菩薩開創八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。
寺の南に井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗井戸(みたらしのいど)があります。
この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、500年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。
龍潭寺は井伊城南の守りの砦の役目を果たしてきた歴史があります。
この参道石垣等に小規模ながら城郭造りの跡が残されています。
朱印地であった境内地24,000坪は、明治政府が没収、その後1万余坪が返還されました。
龍潭寺の森は日本の森百選に選ばれています。
この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍(がらん)は、江戸時代建立の貴重な文化財で長い歴史をひめてよく保存され今日に至っています。
鐘楼の傍には井伊直政公誕生の地の石碑が建てられている。
井伊家の菩提寺龍潭寺の鐘楼の傍には直政誕生の石碑が建てられた。
徳川四天王
井伊直政(いいなおまさ)
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊荘祝田で、名門井伊氏の嫡男(ちゃくなん)(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。
8歳の時、直政は龍潭寺の南渓和尚(なんけいおしょう)の計らいで、三河鳳来寺(みかわほうらいじ)に預けられ成長します。
15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備」(あかぞなえ)の軍を直政に付けます。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。
この功で直政は6万石に出世、井伊家再興を果たしました。
慶長5年、関ヶ原合戦では東軍の軍艦(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。
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廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の傷跡が痛々しい丈六(じょうろく)の大仏
丈六の釈迦牟尼佛(じょうろくのしゃかむにぶつ)
この仏様は遠州地方第一の大仏様、丈六仏です。
丈六とは一丈六尺(五米)の寸法を言いますが、お坐りですから三米(3メートル)ほどの高さです。
享保14年(1729)雲長作の寄木造り釈迦牟尼仏坐像です。
静かに心を深く見つめておられる、座禅のお姿の仏様です。
この仏様のお体(からだ)には黒い落書きの跡が付いています。
明治初年に起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教を排斥しお寺をこわす)の動乱の傷跡です。
本堂前にあった大仏殿が壊されたとき、近所の子供たちがこの仏様に登り、金箔をこすった跡です。
廃仏毀釈という歴史の生き証人といえる仏様です。
井伊家の菩提寺龍潭寺は浜松屈指の観光スポットです。
女城主直虎が住んだ松岳院跡があります。
それは天平5年761年に始まるといいます。
幕末の大老を出した、井伊家の菩提寺であっても明治政府の廃仏毀釈の影響からは逃れられませんでした。
龍潭寺WEBページ https://www.ryotanji.com/index.html
仁王門下に直虎が母と住んだ松岳院跡があります。
井伊家の菩提寺龍潭寺の仁王門をおりてすぐ右側に直虎が母と住んだ松岳院跡があります。
直虎の母は、彼女を井伊家の姫としての幸せを望んでいたにちがいありません。
松岳院跡地
松岳院跡地とは、井伊家22代直盛公の御内室、松岳院様が住まわれた塔頭(たっちゅう)(寺内寺院)があった場所です。
江戸時代中期に彦根の絵師が描いた龍潭寺境内図に、松岳院の建物が記されています。松岳院様は、おんな城主井伊直虎公の母君です。
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間に出陣した直盛は織田信長の奇襲を受け、今川義元と共に討死しました。直虎の母は髪をおろし仏門に入りました、松岳院という法号を頂き松岳院様とよばれ、龍潭寺境内のこの地に庵(いおり)を建て、亡き直盛の追善供養を勤められました。
永禄11年(1568)11月徳政令(債権の放棄)を受け入れた直虎は井伊谷城を出て松岳院に入りました。
1ヶ月後の12月、徳川家康は井伊領に侵攻して井伊谷城を接収し、引馬城へ入り遠州進出第一歩を印しました。
天正3年(1575)、井伊直政公は浜松城で家康に仕えました。
天正6年(1578)1月15日、直虎の母松岳院逝去。
法名松岳院殿寿窓祐椿大大姉と申し龍潭寺に葬られました。
天正10年(1582)6月、本能寺の変。家康主従決死の伊賀越え、直政は家康を守り無事岡崎に帰還しました。
直政のこうした活躍を見届け、直虎は同年8月26日、大叔父である龍潭寺二世南渓和尚に見守られ逝去しました。
庫裡の上り端にいらっしゃる三州護法韋駄尊天像が美しい。
本堂や庭園を拝観する場合には、拝観料を払って庫裏から靴を脱いで上がるのですが、そこに三州護法韋駄尊天がいらっしゃいます。
暗くてよく見えず、カメラの感度を上げて撮影するとノイズが乗ってしまうのですがすが、幸いにもその美しい姿が写っていました。
井伊氏は2つの難局を生き抜いたようにみえます。
井伊家の歴史年表を見ると、井伊氏は2つの難局を生き抜いたようにみえます。
井伊家の歴史年表 https://www.ryotanji.com/history/iikerekisinenpyo.html
ひとつは南北朝時代南朝の時代です。
後醍醐天皇の王子、宗良親王(むねながしんのう)に付き従った時代。
もうひとつは一族が消滅する危機にあった時代です。
それは、井伊氏を龍潭寺住職南渓和尚と女城主の井伊直虎(次郎法師)の努力の時代。
井伊直政を守り育て、戦国の世を血脈をつなげて生き抜いた時代です。
そんな2つの時代を乗り越えてきた一族であることが分かります。
井伊直政の戦場での戦い方が切ない
井伊直政の戦場での戦い方は切ないのです。
大将自らが先陣を切って敵陣に突撃するというスタイルだったそうです。
それは、井伊家は戦いでは常に背水の陣で臨むしかなかったからでしょう。
井伊家再興の必死さから生まれた戦法、直政にもそれがきっと分かっていたのでしょう。
平安時代から懸命に生き抜いてきた井伊一族。
彼らには平和に過ごせた時代はほとんどありませんでした。
そんな一族のDNAが、直政にきっとそうさせるのだろうと思います。
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