写真 寺社仏閣 歴史

写真:熱田神宮の伝説の梅「ならずの梅(不実梅)」の花が咲いた!@名古屋市

2024/2/27

熱田神宮の伝説の梅「ならずの梅」の花が咲いた! 大きな梅の木です。 真っ白にいっぱい咲かせている花の中に、隠すようにして咲かせている桃色の花を見つけました。 源平桃に似て、花びらに赤白の色がまだらにある花もあります。 この梅の花は八重です。 花をよく見てくれる人にしか分からないような印象的な咲き方で、見る人を楽しませてくれます。 500年もの長い間、こうしてひとの心を惹きつけてきたのです。 ならずの梅 この梅は享禄の古図(1529年頃)にも描かれている奇木で 毎年二月上旬頃から薄桃色の清らかな八重の花が咲 ...

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写真 歴史 風景

写真:正岡子規記念球場@東京都台東区

2024/2/24

「春風や まりを投げたき 草ノ原」  子規 正岡子規記念球場 正岡子規(1867~1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横の空き地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ「野球(のぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその ...

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写真 寺社仏閣 徳川家康 歴史

写真:上野公園には上野東照宮があります。そして五重塔もあります。@東京都台東区

2024/2/22

上野公園に東照宮があります。 また五重塔の向こうの上野動物園の中には藤堂高虎の墓があります。 上野動物園は明治15年(1882)に寛永寺の元敷地内にできた施設ですが、藤堂高虎は天海と共に元和2年(1616)に家康の枕元で聞いた遺言を実現するために寛永寺創建の場所として自分の屋敷を提供しました。 上野動物園ができる266年前の出来事です。 そして、寛永7年(1630)高虎が74才で亡くなったときに寛永寺の天海(寛永20年(1643)没)が高虎の墓所とするのは当然のことと言えます。 上野の五重塔は、現在は上野 ...

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写真 寺社仏閣 歴史 風景

写真:世界文化遺産の清水寺、その舞台からは雨の愛宕山が見えます。左の天王山でも降っているようだからやがて雨がやってくるはず。@京都市

2024/2/21

清水寺舞台 茶碗坂最後の上り坂と階段 世界文化遺産の清水寺、その舞台からは雨の愛宕山が見えます。 天王山も降っているようだ。 すぐにここにも雨がやってくるはず。 急いで東山通りまで下りておかないと雨に降られると困る。 傘は持ってないのだ。 清水寺のお土産にビニール傘はあまり買いたくないのです。 大谷本廟総門で雨宿り 先にお話ししておくと、雨の降り出した清水寺から東山通りまで下りてきても予想通りタクシーは拾えませんでした。 仕方なく雨に濡れた頭と上着を拭きつつ、東山五条にある大谷本廟の総門下で30分ほど雨宿 ...

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写真 風景

写真:外国人でごった返す土曜の夜の道頓堀と戎橋の様子がこれです。@大阪市

2024/2/22

えびすばし橋伝統のグリコ電飾看板 えびす橋南詰 えびす橋北詰 道頓堀橋(御堂筋)から見たえびす橋の船着場 えびす橋南詰戎橋筋 インバウンドの外国人でごった返す土曜日の夜の道頓堀と戎橋(えびすばし)の様子がこれです。 飲食店の前には入店街の列に並ぶアジア系の外国人でいっぱいです。 歩きながら、あちらこちらから聞こえてくる会話は、英語ではなくアジアの国々の言葉です。 お店の方が話す日本語の会話が耳に届くと、ホッとします。 私には肩身の狭い思いをする街になっています。 道頓堀商店街 千日前には私の知っているディ ...

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写真 風景

写真:紀勢自動車道の勢和多気インターすぐ、”VISON”と猿田彦珈琲。

2024/2/20

名古屋から東名阪自動車道、伊勢自動車道から紀勢自動車道に入ってすぐの勢和多気ICすぐにあるVISON(ヴィソン)と猿田彦珈琲。 三重県の伊勢神宮近くにある”VISON(ヴィソン)”に行って写真を撮ってきた。 三重県のほぼ真ん中にある多氣町。 「氣」は命を意味することから、 「多くの氣を育む場所」とも言われていました。 そんな豊かな背景を持つ土地で。 VISONでは[癒・食・知]を軸とした、 みずみずしくしあわせな体験が待っています。 ViISON(ヴィソン)のHPにそのように説明されています。 一方で、V ...

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写真 寺社仏閣 歴史

写真:東京の上野恩賜公園は幕末の上野戦争で寛永寺の伽藍の多くが失われるまでは、そのほとんどが寛永寺の敷地でした。

2024/2/16

東京の上野恩賜公園は幕末の上野戦争で寛永寺の伽藍の多くが失われるまでは、そのほとんどが寛永寺の敷地でした。 東京都の公園を管轄する東京都建設局は、上野恩賜公園について短く簡単に、そしてわかりやすく説明しています。 明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定されました。 ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いています。 寛永寺跡を公園と決定された経緯は公園の説明板が教えてくれます。 ...

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写真 寺社仏閣

写真:岩津天満宮の梅園はもうすぐ見頃です。2/12@岡崎市

2024/2/13

岩津天満宮の梅はもう見頃です。 三河、尾張の受験生の願いを一身に受ける立場にある岩津天神です。 受験シーズンなので参拝者であふれています。 境内の駐車場にはキッチンカーが出店しているほどです。 梅園の梅は五分咲きですが、見事です。 開花の遅いしだれ梅はまだつぼみでした。 https://www.iwazutenjin.jp/access PR 不動産の売却をご検討なら【三井のリハウス】

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写真 寺社仏閣

写真:旧正月の初詣も猿投神社です。@豊田市

2024/2/11

2024年は2月10日が旧正月です。 少し前にも来たのですが、再び旧正月の初詣にやってきました。 晴れて日が照っていますが、境内は冷えています。 入れ替わり立ち替わりクルマで参拝者がいらっしゃいます。 PR 貼るタイプのヒアルロン酸『ヒアロエイド』 御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の双子のお兄さんで左利きの大碓命(おおうすのみこと)です。 御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の双子のお兄さんで左利きの大碓命(おおうすのみこと)です。 日本武尊は小碓命(おうすのみこと)ともいいます。 日本武尊は ...

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写真 風景 飛翔

写真:名古屋駅前のモニュメント飛翔跡地の工事の様子2024/02/06

2024/2/9

2024/02/06の名古屋駅前のモニュメント飛翔跡地の工事の様子です。 モニュメントの飛翔を撤去後の2023年8月に見たときの様子とあまり変化がありません。 飛翔の跡地は名古屋駅のタクシー乗り場をなくして高島屋のある桜通口から出っ張る形で地続きにする計画です。 この飛翔の跡地の下の部分は地下街の通路になっています。 通ってみると分かるのですが、それほど天井の厚みはありません。 そう考えると、この部分に穴を開けるなどできないので、このまま芝生を貼って養生してしまってもいいのではと思います。 左側に見える階 ...

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写真 徳川家康 戦国の城 歴史

苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの恵那市明智町辺りまで広いエリアに勢力があったようです。

その拠点は美しい石垣で有名な岩村城のある恵那の岩村(恵那市岩村町)でした。

そして関ヶ原の戦い以降、岩村は岩村藩となり大給(おぎゅう)松平家が入った。

明智は旗本明智遠山氏6,500石の領地となり明治まで陣屋が置かれていました。

そして苗木の遠山氏は苗木城を居城とする10,500石の大名となり苗木藩は明治まで続きました。

明智は明智光秀の生誕地としても有名ですが、同じ場所でありながら時代や人物、そして支配者や出来事などが年代ごとに何層にも重なっているので、そのことがいつの時代のことなのかを押さえておくととがコツです。

TV番組で有名だった遠山金四郎景元(遠山の金さん)は旗本明智遠山氏の分家筋にあたるのだとか。

中津川市から中央高速道路を東京方面に進むと有名な恵那山トンネルを通って長野県飯田市から伊那谷を通って塩尻、諏訪方面に抜けます。

岩村城本丸跡から望む中津川市街と恵那山

その反対に進むと愛知県の小牧ジャンクションを経て左(東)に行くと東名高速道路で名古屋、東京方面へ、右(西)に行くと名神高速道路で大阪に至ります。



苗木城は交通の要衝で、中津川市を流れる木曽川北側河岸の高森山にあります。飛驒の郡代がお城のすぐ傍の街道を通って高山に赴任した記録があります。

飛騨郡代のお国入り 高山陣屋のパネル

34歳の時に飛騨郡代を拝命した豊田友直(在任期間1839年 - 1845年)が記した飛騨在勤中日記では、赴任旅程は江戸日本橋から飛驒高山まで15泊16日で、行程は約437㎞です。

4月11日に江戸日本橋を出発して到着は4月26日となっています。

中山道を通って赴任するので中津川宿には11日目の4月22日に到着しています。

中津川からは裏木曽街道(国道257号)を北上して飛驒高山まで向かうのですが、苗木城は木曽川を渡った街道沿いすぐのところにあります。

豊田友直郡代が赴任途中に苗木城のすぐ近くを通れば、当然遠くからでも苗木城は目に入ります。

その上に領内の宿場に宿泊するので、城には立ち寄らないにしても、なにがしかの対応(饗応?)はしたのではないかと想像できます。

豊田友直が旗本であったとしても、幕府直轄飛驒38,000石の郡代です。

苗木藩10,000石は大名といえども、郡代に挨拶も何もしないで放っておく訳にはいかないのではないかと思います。

苗木藩江戸屋敷からなにか指示が下っているはずです。

苗木城の登城口にある苗木遠山史料館の展示資料はリアルで充実した内容の展示です。登城前に心を落ち着けて見ておくといっそう楽しめます。

苗木遠山史料館入場券

史料館でゆっくり展示資料を見た後苗木城に登ると、ここで働いていた苗木藩士134人が城内を小走りに行き来しながらそれぞれが役目に追われていた様子が目に浮かんできます。

そして誰かに追い越されるような気配を感じたり、石垣の陰で相談ごとをしている声が聞こえてくるような気がして、城跡に命が吹き込まれて生き生きと蘇ってきます。

史料館は、そんなイメージをたくさんインプットしてくれます。

史料館は苗木城跡の入り口にあります。

史料館ホームページ http://naegi-toyama.n-muse.jp/

特に苗木城や苗木藩関係資料、中山道や宿場町に関連する資料は、他の地域にはないリアルな状況が記録展示されています。

とても興味深い内容なので私は時間を忘れて読みふけってしまいました。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2120605100

文書や幕府からの指示を農民にどのように伝えたのか、など藩政の具体的な施策が手に取るようにわかります。

とても親切で理解しやすい資料だと思います。

藩政のことを伝えるとても価値のある資料ばかりです。

中津川市古文献アーカイブではさらに深く知ることができます。

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2120605100/2120605100100010/nktgshishi0101/

中津川のことが詳しく書かれています。

苗木城、岩村城、明智遠山氏などについてこの城を巡る攻防とその変遷が書かれていて、それが目に浮か日ます。

その度重なる戦いの苦労が心に響いてきます。

織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、などの権力争いによる影響を受けて揺らぐ遠山氏の様子が記録されています。

これらを物語にすると、大久保彦左衛門の記した三河物語のように生き生きとした興味ある物語ができるのではないか思ったほどです。

苗木藩で働く武士たちの息吹を感じます。

また、気持ちを落ち着けて読んでみると、テレビの時代劇などで見るような大きな藩や徳川家のイメージではなく、藩の経営や実務、また幕府支配という仕組みの巨大さを感じます。

ビジネスで経営を担当する人には先人に学ぶことも多く時代を超えて私たちに伝えています。

藩政をを行う上で農業や林業などの既存の産業に加えて付加価値のある新しい産業を興して藩の経済を立て直すことがとても重要と思います。

それは、何もこの時代や苗木藩に限った事ではないでしょう。

江戸幕府崩壊も、その根本を突き詰めれば経済的な問題が原因だったのではないでしょうか。

苗木藩ではどのくらいの人が働いていたのかの資料があったので中津川市の資料を参考にして示しておきます。

正保2年(1,645年)「男女人数帳」による。

階層人員
給人26人
中小姓徒士52
足軽52
中間56
下男26
合計212人

元資料福岡町史  <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100030/ht010190>

寛文11年(1671年)の「苗木藩分限帳」[苗木藩政史研究 四三]に記載されている職制名を記載順にしています。

寛文11年(1671年)の職制表

職名員数
城代1
家老3
近習用人2
用人2
弓頭1
鉄炮頭2
長柄1
郡奉行2
大目付3
奥家老1
役人(寄合)9
隠居衆7
中小姓頭1
近習小姓頭1
中小姓目付1
納戸2
馬乗1
金奉行2
勘定頭3
近習2
小姓衆10
中小姓衆14
代官衆6
祐筆2
江戸下屋敷預り1
扶持渡1
鉄炮屋2
普請奉行5
茶道8
徒士34
料理人4
134人

この表に示されるものは士分格以上の役職制である。

表中「城代」から「役人(寄合)」まで合計二七人が給人で、次の「隠居衆」は給人を退役した者である。

給人が占める役職は、城代・家老・近習用人・弓頭・鉄炮頭・長柄・郡奉行・大目付など、軍事的にも行政的にも中核的な役職で、「代官衆」など地方支配は徒士格の者が任用されている。

まだ寛文期の職制では、行政面において未分化の状態にある。

これが享保期の「諸士分限帳」(遠山健彦氏蔵)によると、弓頭・鉄砲頭・長柄など軍事的な役職の「武頭」のかわりに台所役人・宗門奉行・鉄砲改め・供頭・紙奉行・荒物奉行などが新たに設けられ、ついで、山方・林方・仕法方などの職名が登場するようになって、元禄期には最終的な藩政の確立を見ることができる。

引用元  <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100030/ht010230>

10万石なら、比例比で藩士は10倍の1,000人になりますが、厳しく見積もって600人程度でしょう。会社の社員数を売上げと利益から計算しているような感じになり、せつなくなります。

これではとても戦などは不可能なのではないでしょうか。

経済的なバックボーンがないとだめですね。

当然、幕府転覆など思いも寄りません。

徳川幕府の圧倒的な支配力を感じてしまいます。

今日は、木曽川に架かる橋の上からの苗木城の写真を撮り逃がしてしまいました。



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