写真 寺社と城 徳川家康 歴史

苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

苗木藩は幕末まで続いた藩です。

その苗木城は苗木藩遠山氏の居城です。

遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの恵那市明智町辺りまで広いエリアに勢力があったようです。

その拠点は美しい石垣で有名な岩村城のある恵那の岩村(恵那市岩村町)でした。

そして関ヶ原の戦い以降、岩村は岩村藩となり大給(おぎゅう)松平家が入った。

明智は旗本明智遠山氏6,500石の領地となり明治まで陣屋が置かれていました。

そして苗木の遠山氏は苗木城を居城とする10,500石の大名となり苗木藩は明治まで続きました。

明智は明智光秀の生誕地としても有名ですが、同じ場所でありながら時代や人物、そして支配者や出来事などが年代ごとに何層にも重なっているので、そのことがいつの時代のことなのかを押さえておくととがコツです。

TV番組で有名だった遠山金四郎景元(遠山の金さん)は旗本明智遠山氏の分家筋にあたるのだとか。

中津川市から中央高速道路を東京方面に進むと有名な恵那山トンネルを通って長野県飯田市から伊那谷を通って塩尻、諏訪方面に抜けます。

苗木藩は幕末まで続いた
苗木城本丸跡から望む中津川市街と恵那山
苗木藩は幕末まで続いた

中央道を南に進むと愛知県の小牧ジャンクションを経て東名高速道路で京都、東京方面へつながります。

苗木城は昔から交通の要衝に位置しています。

苗木城は交通の要衝で、中津川市を流れる木曽川北側河岸の高森山にあります。飛驒の郡代がお城のすぐ傍の街道を通って高山に赴任した記録があります。

飛騨郡代のお国入り 高山陣屋のパネル

34歳の時に飛騨郡代を拝命した豊田友直(在任期間1839年 - 1845年)が記した飛騨在勤中日記では、赴任旅程は江戸日本橋から飛驒高山まで15泊16日で、行程は約437㎞です。

4月11日に江戸日本橋を出発して到着は4月26日となっています。

中山道を通って赴任するので中津川宿には11日目の4月22日に到着しています。

中津川からは裏木曽街道(国道257号)を北上して飛驒高山まで向かうのですが、苗木城は木曽川を渡った街道沿いすぐのところにあります。

豊田友直郡代が赴任途中に苗木城のすぐ近くを通れば、当然遠くからでも苗木城は目に入ります。

その上に領内の宿場に宿泊するので、城には立ち寄らないにしても、なにがしかの対応(饗応?)はしたのではないかと想像できます。

豊田友直が旗本であったとしても、幕府直轄飛驒38,000石の郡代です。

苗木藩10,000石は大名といえども、郡代に挨拶も何もしないで放っておく訳にはいかないのではないかと思います。

苗木藩江戸屋敷からなにか指示が下っているはずです。

苗木城の登城口にある苗木遠山史料館の展示資料はリアルで充実した内容の展示です。登城前に心を落ち着けて見ておくといっそう楽しめます。

苗木藩は幕末まで続いた
苗木遠山史料館入場券

苗木藩は幕末まで続いたので多くの貴重な資料が残されています。

それらを管理する史料館でゆっくり展示資料を見た後苗木城に登って見るここで働いていた苗木藩士134人が城内を小走りに行き来しながらそれぞれが役目に追われていた様子が目に浮かんできます。

そして誰かに追い越されるような気配を感じたり、石垣の陰で相談ごとをしている声が聞こえてくるような気がして、城跡に命が吹き込まれて生き生きと蘇ってきます。

史料館は、そんなイメージをたくさんインプットしてくれます。

史料館ホームページ http://naegi-toyama.n-muse.jp/

特に苗木城や苗木藩関係資料、中山道や宿場町に関連する資料は興味深いものです。他の地域にはないリアルな状況が記録展示されています。

とても興味深い内容なので私は時間を忘れて読みふけってしまいました。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2120605100

幕府からの指示領民への伝えかたがわかります。

また、苗木藩の具体的な施策が手に取るようにわかります。

とても親切でわかりやすい資料だと思います。

苗木藩は幕末まで続いたので藩政のことを伝えるとても価値のある資料ばかりです。

中津川市古文献アーカイブではさらに深く知ることができます。

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2120605100/2120605100100010/nktgshishi0101/

中津川のことが詳しく書かれています。

苗木城、岩村城、明智遠山氏とこの城を巡る攻防が記録されています。

それと同時に時代の変遷があり、それが目に浮かぶようです。

その度重なる戦いの苦労が心に響いてきます。

織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、などの権力争いによる影響を受けて揺らぐ遠山氏の様子が記録されています。

これらを物語にすると、生き生きと伝わると思います。

苗木藩で働く武士たちの息吹を感じます。

また、気持ちを落ち着けて読んでみました。

テレビの時代劇などで見るようなイメージではありません。

藩の経営、また幕府支配という仕組みや情報の大切さと気遣いを垣間見た気がします。

ビジネス経営を行う人には先人に学ぶことも多く時代を超えて私たちに伝えています。

藩政をを行う上で農業や林業などの既存の産業が大切です。

それに加えて付加価値のある新しい産業を興ス必要があります。

そのようにして藩の財政を立て直すことがとても重要と思います。

それは、何もこの時代や苗木藩に限った事ではないでしょう。

江戸幕府崩壊も、その根本を突き詰めれば経済的な問題だったのではないでしょうか。

苗木藩ではどのくらいの人が働いていたのかの資料がありました。その中津川市の資料を参考に示しておきます。

苗木藩は幕末まで続いた

正保2年(1,645年)「男女人数帳」による。

階層人員
給人26人
中小姓徒士52
足軽52
中間56
下男26
合計212人

資料福岡町史  <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100030/ht010190>

寛文11年(1671年)の「苗木藩分限帳」に記載されている職制名です。

寛文11年(1671年)の職制表

職名員数
城代1
家老3
近習用人2
用人2
弓頭1
鉄炮頭2
長柄1
郡奉行2
大目付3
奥家老1
役人(寄合)9
隠居衆7
中小姓頭1
近習小姓頭1
中小姓目付1
納戸2
馬乗1
金奉行2
勘定頭3
近習2
小姓衆10
中小姓衆14
代官衆6
祐筆2
江戸下屋敷預り1
扶持渡1
鉄炮屋2
普請奉行5
茶道8
徒士34
料理人4
134人

この表に示されるものは士分格以上の役職制である。

表中「城代」から「役人(寄合)」まで合計二七人が給人で、次の「隠居衆」は給人を退役した者である。

給人が占める役職は、城代・家老・近習用人・弓頭・鉄炮頭・長柄・郡奉行・大目付など、軍事的にも行政的にも中核的な役職で、「代官衆」など地方支配は徒士格の者が任用されている。

まだ寛文期の職制では、行政面において未分化の状態にある。

これが享保期の「諸士分限帳」(遠山健彦氏蔵)によると、弓頭・鉄砲頭・長柄など軍事的な役職の「武頭」のかわりに台所役人・宗門奉行・鉄砲改め・供頭・紙奉行・荒物奉行などが新たに設けられ、ついで、山方・林方・仕法方などの職名が登場するようになって、元禄期には最終的な藩政の確立を見ることができる。

引用元  <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100030/ht010230>

10万石なら、比例比で藩士は10倍の1,000人になります。厳しく見積もって600人程度でしょう。会社の社員数を売上げと利益から計算しているような感じになり、せつなくなります。

これではとても戦などは不可能なのではないでしょうか。

経済的なバックボーンがないとだめですね。

当然、幕府転覆など思いも寄りません。

徳川幕府の圧倒的な支配力を感じてしまいます。

今日は、木曽川に架かる橋の上からの苗木城の写真を撮り逃がしてしまいました。



1          3

-写真, , 寺社と城, 徳川家康, 歴史
-, , , , , , , ,

テキストのコピーはできません。