
元禄赤穂事件(忠臣蔵)で命を落とした吉良家の剣の使い手、清水一学(1703年25歳没)は、元禄赤穂事件で吉良邸に討ち入った赤穂浪士から吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を守り討ち死にした吉良家の忠臣です。
彼の墓が東京の中野区の万昌院功運寺と生まれ故郷の、愛知県西尾市吉良町宮迫の円融寺にあります。
ここでは、彼の生まれ故郷の吉良町宮迫にある円融寺の一学のお墓を撮影してきたのでその話をします。
小さい頃から剣術を習っていた一学が弱かったとは思えません。
吉良邸に討ち入ってきた赤穂浪士とあまり戦わずして討ちとられてしまったとされる記録もあるようです。




しかし、一学は子供の頃から剣術を好み吉良家の領地の吉良岡山陣屋まで修行に出かけていたそうなので、剣術が弱かったわけではなさそうです。
一学の実家があった宮迫から吉良家の岡山陣屋までは片道約4㎞ほどの道のりです。
子供の頃から剣術によって吉良家に仕えようとの志があったのかもしれません。
清水一学の墓は三河(西尾市)の吉良町宮迫にある実家の裏にあります。


清水一学の墓は三河(西尾市)の吉良町宮迫にある実家の裏に墓があります。
彼の墓の前に広がる茶畑の向こうが一学の実家があった場所だと地元の方が教えてくれました。

私が一学のお墓見つけられずに迷っているのを見かねて、遠くの方から一学のお墓の場所を教えてくれました。
一学のお墓のある円融寺の隣家の方でした。
わざわざ一学の墓の前までおいでになって立ち話をしている時に、あれこれとお話しくださったのです。
一学の実家には、長く子孫の方がお住まいだったのですが、東京へ引っ越されて以降もしばらくの間、実家の梨畑を近所の人たちで世話をしていたそうです。
最近ではそれもできなくなり、荒れたままになっていると言うので、指さす方を見ると、もう作物を作っている様子は伺えませんでした。
歌舞伎や講談の仮名手本忠臣蔵に登場する清水一学は吉良家の剣の使い手として登場します。

歌舞伎や講談の仮名手本忠臣蔵に登場する清水一学は吉良家の剣の使い手として登場します。
赤穂浪士と戦って討死してしまった場所が、吉良邸の台所だったので、彼が剣の使い手だとは思われてないようですが、実際には、赤穂浪士の襲撃から逃れるために吉良上野介が隠れた場所近くに居てそこを守っていたと思われるので、主君を守るという責任感と剣の腕に覚えがなければ、そこで主君を守るために討死するはずもないと考える方が考えやすいと思っています。

史蹟 清水一学墓
一学はここ宮迫の百姓の生まれで、幼名を藤作といった。
少年のころから剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。
義央公(よしひさ)(吉良上野介)は、藤作に目をかけ、
十五歳で江戸に呼び寄せ、やがて中小姓ににとりたてた。
赤穂浪士襲撃の夜一学は奮戦して討死、行年二十五歳であった。
遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺に分骨した。時の円光上人は
一学の法名端翁元的を改め、義央公の法名にちなんで実相院宗禅信士
として、ここに葬った。
一学は、一角 逸学 逸覚とも書かれ仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内の
名前で知られている。
西尾市教育委員会