三河稲荷神社は縁起の良い神社です。
東京の丸ノ内線本郷三丁目駅近くにあります。
家康が1590年の江戸移封の折に、どうしても三河から連れてきたかった由緒ある神社です。
三河一向一揆のときに20歳の家康は豊田市の隣松寺(りんしょうじ)に陣を敷き、
目と鼻の先にある酒井将監が守る上野城を1563年に攻め滅ぼしました。
陣を敷いていたその隣松寺(りんしょうじ)にあったのが三河稲荷社で、
家康はこの三河稲荷社に戦勝を祈願して勝利したと伝わります。
それまでに三河一向一揆を平定していた家康は、これで三河に自分に敵対する者がいなくなります。
そして、少し前までは敵だった織田信長に目をかけられることで、
天下統一のスタートラインに立つことになります。
この三河稲荷神社を家康が江戸に連れてきたのには
そんなことがあった縁起のいい稲荷神社だからです。
三河稲荷神社は、1590年の家康の江戸入りと同時に江戸城内に鎮座し、その後ここに移りました。
この三河稲荷神社は、家康が江戸入りのときに江戸城内に鎮座し、
その後ここに移りました。
徳川家康が1590年に江戸に移ったときに、
三河の稲荷社から分社してわざわざ江戸城に社を造営しています。
家康はよほど頼りにしていた稲荷社だったのでしょう。
最初の頃は、家康がいる江戸城の吹上に鎮座していました。
以降、何度か遷座の歴史がありますが、現在は文京区本郷に鎮まっています。
そのことについては、三河稲荷神社にその由緒の説明があります。
三河稲荷神社は何を隠そう、京都の伏見稲荷神社でいらっしゃいます。
また、三河稲荷神社は京都の伏見稲荷神社でもいらっしゃいます。
決して、いい加減なことを言っているのではありません。
隣松寺の三河稲荷社の由緒には1240年に京都伏見稲荷から勧請されたことが書いてあるので
間違いはありません。
だから、そもそもは京都伏見稲荷神社なのです。
なんともすごいブランド力のある稲荷神社なのです。
東京三河伏見稲荷神社として盛大に自慢して
そのブランド力を関東一円に示した方がいいと思います。
その御利益は、商売繁昌・五穀豊穣だけではなく、
家康が戦勝を祈願し勝利した、武運のお稲荷様という御利益も加えていいと思います。
なんとも誇らしいことではありませんか。
三河稲荷神社(通称 三九さま)
祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
由緒
当社は三州碧海郡上野庄稲荷山に鎮座して、徳川家康三州在城のみぎり崇敬浅からず、しばしば奇瑞(めでたい事の前兆)ありて神徳を感じ、開運の後、神領として30石に山林境内を寄進あり、天正18年(1590)江戸入国にさいし社を吹上に造営奉遷した。
慶長11年(1606)由緒あって仲間小人拝領大縄地に移住の節、大縄地氏神として奉遷、元禄7年(1694)町地となるにおよび、本郷元町と改称、1丁目・2丁目の氏神として鎮座し、明治元年地続きの浄土宗昌清寺囲内となるにおよび、元町2丁目3番地に200余坪の敷地を購い遷座、のち明治26年3月本郷給水所設置により、現在の所に遷座。大正12年9月の大震災により全焼、大正13年6月本殿・幣殿・神楽殿・社務所完成、社務所は昭和58年改築現在に至る。
この由緒を読むと、三河稲荷が家康に連れられて江戸にやってきて430年以上経ちますが、
その間に神様にはいろいろなご苦労があったことがわかります。
徳川家康が三河一向一揆を収束させたのは1564年です。
徳川家康が三河一向一揆を収束させたのは1564年で、
家康が22歳の時のことです。
そして、一揆鎮圧がほぼ終わり、最後の仕上げとして
家康に従わなくなってしまった、
上野城(豊田市)の酒井将監忠尚を攻めることでした。
そのとき家康は上野城のすぐ近くにある隣松寺に陣を敷きました。
そのとき家康は上野城のすぐ近くにある隣松寺に陣を敷きました。
そこで戦勝を祈願したのが隣松寺境内にある三河稲荷でした。
三河稲荷神社は家康にとって縁起の良い神社でした。
この上野城責めを行ったときは、一向一揆を鎮圧したときと同じ1564年、家康が22歳の時です。
そのようにして家康は三河を掌握して以降、岡崎から浜松、静岡へと拠点を移していきます。
そして、江戸に移ったのが1590年ですから、
隣松寺の三河稲荷社との関係は26年間のブランクがあったことになります。
それにもかかわらず、縁起の良い三河稲荷神社の恩を忘れずに
隣松寺の稲荷社を分社してまで、江戸に連れて行行きました。
この出来事は、家康の記憶力と恩義や情に深い性格がよく表れているエピソードです。
豊田市にある三河稲荷社は隣松寺の境内に鎮座しています。
隣松寺は家康との繋がりを大切にしました。
家康が岡崎を離れた後からも家康のいる浜松、駿府まで出向いて、
家康との関係の維持を図っていたようです。
隣松寺稲荷社由緒
当山稲荷社は仁治元(1240)年、鎮応和尚(当山住職)が京都伏見より勧請したと伝えられ、以来、五穀豊穣、開運、安産祈願の由緒ある社として近在近郷からの信仰をを得てまいりました。
殊に岡崎城主松平広忠公は竹千代(後の徳川家康公)誕生にあたり成長の無事を祈願したと伝えられます。
家康公は、永禄六(1563)年、三河一向一揆の際、この稲荷社に戦勝祈願をし、上野上村城(酒井将監忠尚)を攻め勝利しました。
家康公はその霊験に感じ入り、寺の山号「玉松山」を「稲荷山」に改め、自信の甲冑姿の本像と念持仏を奉納されるとともに朱印地30石を寄進されました。
また、江戸開府の折りには、当稲荷社の分社を吹上にに造営奉遷され(三河稲荷神社)、これは稲荷信仰が江戸に広まった基となったと言われております。
明治元(1868)年、「廃仏毀釈・神仏分離令」が発布され、以来活動を停止し、社殿は参道を背にしておりましたが、平成の再建にあたり旧姿に復することに致しました。
平成16年2月 39世 誠誉
徳川ゆかりの稲荷社
隣松寺の稲荷社は安産祈願の由緒ある社として、近在近郷の人たちの信仰を得ていました。特に、松平広忠の祈願により、竹千代(後の家康)が生まれ、その家康が三河一向一揆のとき、この稲荷社に戦勝祈願をし、相手方上野城主に勝ったと言われています。
近年、東京本郷に「三河稲荷社」として末社の存在が判明しました。(隣松寺)
隣松寺
当稲荷山隣松寺は、人皇53代淳和天皇第三皇子東山親王国長公当地に配流承和10年薨去、隣松寺院殿一位相国太居士と号し、従兄弟仁明天皇、追善の為に当山を草建されたと伝う。当初は、天台宗、明徳年間明浄土宗に改宗され、現在に至る。徳川氏との関係は深かった。
寺宝(豊田市文化財)
1.徳川家康公安緒状、徳川将軍朱印状
1.徳川家康公木像、甲冑三尊像各1体
1.雲版1面、華曼十面
1.善導大師筆、観音曼荼羅一軸
豊田市教育委員会
いろいろなことがわかると、本郷にある三河稲荷神社のことを誇らしく思います。
東京神社庁HP http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/bunkyo/5326