徳川四天王のひとり井伊直政(1561-1602)は浜松の井伊谷生まれです。
彼の生まれ故郷井伊谷(いいのや)は浜名湖の北、浜松市引佐町井伊谷にあります。
井伊家は南北朝の時代に後醍醐天皇の皇子である宗良(むねなが)親王を支えています。
宗良親王は、征東将軍として井伊谷を本拠地として五十年以上の間、活躍されました。
その宗良親王を支えたのが井伊家です。
東征将軍であった宗良親王は73歳まで各地で活躍されました。
その後に、井伊谷にお戻りになりこの地で薨去なさいました。
そのような歴史を持つ井伊家の当主直政は井伊家の24代目です。
一方、主君の徳川家康は松平家9代目です。
井伊家は松平家(徳川家)よりも歴史があります。
初代から数えて1000年以上続いている家柄です。
家康が重要な交渉ごとなどに直政を起用したと伝わっています。
それはその実力と共に由緒ある家柄であったことがあります。
交渉相手が有力な武将や大名であっても位負(くらいまけ)しません。
井伊家の家柄はそのくらい家格が高かったのです。
浜松市指定史跡
伝 井伊共保出生井(共保公出生の井戸)
昭和52年4月19日指定 浜松市教育委員会
寛弘7年(1010)、井伊氏初代の井伊共保(ともやす)が生まれたと伝わる井戸です。
共保は、遠江国司として志津城を居城とした藤原共資(ふじわらともすけ)の養子となり、井伊谷に移り姓を「井伊」としました。
江戸時代に建てられた卒塔婆形(そとうばがた)の石碑には、井戸の傍らに橘(たちばな)の木が生えていたことから、井伊氏は「橘」を家紋とし、「井」を旗幕としたことが記されています。
石碑の建造をはじめ、井戸の整備は彦根藩主が繰り返し行っており、井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が篤く崇拝していたことが分かります。
井伊家系図
初代 共保(ともやす)二代 共家(ともいえ)三代 共直(ともなお)四代 惟直(これなお)五代 道直(みちなお)六代 盛直(もりなお)七代 良直(おしなお)八代 彌直(みつなお)九代 泰直(やすなお)十代 行直(ゆきなお)十一代 景直(かげなお)十二代 道政(みちまさ)十三代 高顕(たかあき)十四代 時直(ときなお)十五代 顕直(あきなお)十六代 諄直(あつなお)十七代 成直(なりなお)十八代 忠直(ただなお)十九代 直氏(なおうじ)二十代直平(なおひら)二十一代 直宗(なおむね)二十二代 直盛(なおもり)二十三代 直親(なおちか)二十四代 直政(なおまさ)二十五代 直孝(なおたか)二十六代 直澄(なおずみ)二十七代 直興(なおおき)二十八代 直道(なおみち)二十九代 直恒(なおつね)三十代 直惟(なおのぶ)三十一代 直定(なおさだ)三十二代直禔(なおよし)三十三代 直幸(なおひで)三十四代 直中(なおなか)三十五代 直亮(なおあき)三十六代 直弼(なおすけ)三十七代 直憲(なおのり)三十八代 直忠(なおただ) 三十九代 直愛(なおよし) 四十代 直豪(なおひで)
井伊家23代直親と24代直政を自分の生涯をかけて繋いだ井伊直虎(次郎法師)
井伊直政(1561-1602)は井伊谷生まれで井伊直虎に育てられました。
二十三代直親が不幸にも亡くなってしまいました。
しかし、幼少の二十四代直政を直虎(次郎法師)が後見しました。
井伊家を守った女性の直虎(次郎法師)の存在は大きかったのです。
菩提寺の龍潭寺南渓和尚とともに井伊家再興(復活)の両輪としてその生涯をかけました。
井伊氏歴代墓所
井の国を本拠としてきた井伊氏は、平安時代より室町時代まで、遠江(とおとうみ)の代表的な国人領主として西遠地方を治めてきました。
井伊介(いいのすけ)を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗良親王(むねながしんのう)を迎え、北朝軍と戦いました。
室町時代今川軍が遠江に侵攻しますと、敢然と立ち向かいましたが敗れました。
戦国時代に入った井伊家は受難の連続でした。
今川義元に従って出陣した井伊家の当主22代直盛は桶狭間で戦死。永禄5年には養子直親が今川の手で殺害されます。
やむなく龍潭寺南渓和尚は直盛の娘、次郎法師を「女性地頭」に立て、井伊家の急場をしのぎます。
永禄11年徳川家康が遠州に侵攻、井伊領をを横領した家老を追放し井伊谷を平定します。
天正3年井伊家24代直政(なおまさ)が浜松城で家康に仕え、見事に井伊家を再興しました。
この墓所には、こうした井伊氏元祖共保(ともやす)より600年の歴史が静かに眠っています。
井伊直虎(次郎法師)と龍潭寺の南渓和尚は井伊直政を鳳来寺に隠しその成長を6年間待った。
井伊家にとって、井伊直政(1561-1602)は井伊谷生まれの大切な跡継ぎです。
大切な男子の跡継ぎを井伊直虎は鳳来寺に隠しました。
鳳来寺本堂横には寺に関連することとして井伊直政や直虎についての説明があります。
鳳来寺と井伊直政
井伊直政(幼名:虎松)は永禄4年(1561年)に井伊直虎の元許嫁(もといいなづけ)である直親の子として生まれました。
永禄5年(1562年)に今川家の家臣により直親が殺されると、虎松は直虎と共に命を狙われる立場となってしまいました。
このため二人は城を出て龍潭寺に身を寄せたものの、龍潭寺にも危険が及んでいることを察し、虎松は「殺生禁断の地」として知られていた鳳来寺に預けられることとなりました。こうして8歳から14歳までを鳳来寺で過ごした虎松は、寺の僧侶たちにより武将として必要な教養を学びました。
その後、徳川家康に仕えた虎松は、万千代、直政と名を改め「井伊の赤備え」を率いて活躍し、徳川四天王と呼ばれるまでの大出世を遂げました。
武田家の旧臣を配下に従えた井伊の赤備え
井伊家の歴史 龍潭寺HP https://www.ryotanji.com/history/iike_history.html