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写真:小堤西池のかきつばたが見頃です。2024/05/15@刈谷市

2024/5/16

5/15小堤西池のかきつばたが見頃です。 先週よりも花に勢いが感じられます。 池の東のシャリンバイの白い花が満開になってその当たりが華やいでいます。 そこでは、かきつばたの花はシャリンバイに主役の座を譲って引き立て役に回っています。 今年は池の水量が多い 今年は池の水が多いので、水面に映り込むかきつばたの花が波に揺らいで融けていくような風情があります。 こんどの週末は今年のかきつばたの見納めになるかも知れません。 かきつばたと混生している葦が伸び始めているからです。 葦が伸びてくると背の低いかきつばたはど ...

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写真:2024年5月9日、国の天然記念物小堤西池のかきつばたが見頃をむかえています。@刈谷市

2024/5/16

2024年5月9日、国の天然記念物、刈谷市にある小堤西池のかきつばたが見頃です。 4月27日に知立神社でかきつばたが咲いているのを見て、その足で小堤西池のかきつばたの様子を確かめに訪れた時はに開花にはほど遠い様子でしたが、それから10日ほどで一気に見頃になりました。 小堤西池のかきつばたは天然記念物なので自然の中にあるがままの姿です。 在原業平がこの辺りを通ったときの景色を伝えています。 ここから少し東にある三河八橋の無量寿寺に行くまでもなく、この辺り一帯は見渡す限りこの風景が広がっていたのだと思いながら ...

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写真:2024年、知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした。@刈谷市

2024/4/27

知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした、 昨年は5月の初めに花が咲き始めました。 先日、知立神社のかきつばたが雨の中でツツジと一緒に美しく咲いていたので、今年は開花が早いのかと思って近くの天然記念物小堤西池に自生するかきつばたの様子を見に行きました。 結果はご覧のとおり花はまだまだでした。 とは言っても。そろそろ開花の時期を迎えます。 https://okazin86.com/chiryu

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写真:尾張国二宮 大縣神社は濃尾平野を開拓者した古代の人たちの守り神。@犬山市

2024/4/30

尾張国二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)は濃尾平野を開拓した古代の人たちの守り神です。 犬山市にあります。 国宝の犬山城から南南東7㎞にある本宮山の麓にある神社です。 元は本宮山、(真霊山(みかみやま)ともいう)の山頂に祀られていた神様ですが、大縣神社の由緒書によると垂仁天皇27年(BC3年)に麓の現在地に遷座されたそうです。 祭神は尾張国開拓の祖神、大縣大神です。 尾張国一宮の真清田神社の祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)も国土開拓、産業開発の神様なので、濃尾平野の開拓と開発のために尽力された神 ...

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写真:尾張国一宮 真清田神社@一宮市

2024/4/22

尾張国一宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)は愛知県一宮市にある歴史ある神社です。 参道はアーケードのある大きな商店街になっていて、市役所も門前に立地しています。 御由緒 神社名 真清田神社(ますみだじんじゃ) 祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと) 鎮座地 愛知県一宮市真清田1ノ1 祭礼日 四月三日(桃花祭) 当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊瓊杵尊の御兄神に坐しまし国土開発、産業守護の神として 御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばれた貴い神様であります。 創建につい ...

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写真:知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。@知立市

2024/4/22

知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。 花菖蒲園(西公園)はまだ咲いていません。 強く降る雨のかなで、ツツジとかきつばたが薄暗い神社の森を背景にして光るように咲いています。 ツツジもかきつばたも例年に比べると咲くのが早いのですが、特にかきつばたがツツジと同じタイミングで咲いているのは、季節がこれまでとは大きく変化してきているのでしょう。 強い雨のせいで知立神社の社号標を撮り忘れました。

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写真:谷汲山華厳寺の仁王像と門前町の桜祭り@岐阜県揖斐川郡

2024/4/15

西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)は、その山号と寺号は醍醐天皇より賜ったと伝えられています。 お寺の場所は、根尾川が山から濃尾平野に流れでる手前の西に位置しています。 その根尾川は濃尾平野にでて木曽三川(きそさんせん)のひとつ揖斐川(いびがわ)に合流します。木曽三川とは長良川、木曽川、揖斐川のことをこのように呼びます。 谷汲山華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られています。 春には桜、秋には紅葉の名所として多くの参拝者を集めま ...

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写真:壬申の乱で大海人皇子に破れた大友皇子の墓と伝わる古墳があります。@岡崎市

2024/4/10

壬申の乱(じんしんのらん・672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ)に破れた大友皇子(おおとものおうじ)の墓と伝わる古墳が岡崎市にあります。 壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の弟、大海人皇子と天智天皇の息子、大友皇子との戦いのことです。 近年では、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)が夫である大海人皇子(後の天智堪能)の皇位継承のために、近江を去り吉野でいの準備を行い、兄である天智天皇が亡くなった後に、兄の息子の大友皇子を討つことを説得したのではという説も有力になっているよ ...

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写真:満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市

2024/4/10

満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市 1500年前に迫害を避けてこの地(岐阜県本巣市根尾)に潜んでいた男大迹王(おほどのおおきみ)が継体天皇として即位するためにこの地を去るにあたり形見として植えられた桜です。 「身の代と残す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛(さか)へ止(とど)むる」。 歌まで添えられています。 継体天皇(男大迹王)は福井で育てられ、迫害を避けてこの地に隠れていました。 そういった歴史上の出来事を知る、やんごとなき桜の木です。 【PR】初心者も安心のサポート充実【DMM FX】 国指定天然記念物 根尾 ...

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写真:東山植物園桜の廻廊満開@名古屋市

2024/4/10

東山植物園の桜の廻廊の桜が満開です。

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写真:織田信長の父織田信秀が築城した末森城と信長@名古屋市

織田信長の父織田信秀が築城した末森城と信長。

末森城は織田信秀(1510頃-1552)が天文17年(1548)に築いた城です。

信秀は織田信長(1534-1582)の父でこの末森城で亡くなっています。

物語映画などでは酒と女に溺れている父親の信秀が、策略にはめられて早死にさせられようとしていることを信長が見抜きます。

それを逆手にとって(織田一族内での敵味方をあぶり出し)、ついには清洲城を手に入れてしまうというストーリーが描かれているものもあります。

末森城は現在は末森城址が城山八幡宮になっていて名古屋では有名な八幡宮です。

末盛城跡

天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城(現在の名古屋東別院のある場所)から移った。

守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。天文21年(1552)、信秀はこの地で病死し、

三男信行が城主となった。その後、信行は、兄信長と対立し、稲生原(いのうがはら)の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)

清洲城で謀殺された。城は翌年廃城となったと言われる。

 城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺構がよく残っている。

名古屋市教育委員会

末森城が秘めている戦国時代を勝ち抜くための城主の頭脳的戦略の意味

信長の父信秀が1552年にこの城で亡くなった後に、信行(信長の弟1536-1558)が末森城の城主になりました。

城の場所は名古屋の東、千種区城山町にあり、名古屋市営地下鉄東山線の覚王山駅(かくおうざんえき)と本山駅の間に

位置しています。

覚王山周辺は丘や谷のある地形になっていて、そこから東方面は急な下り坂になっています。

城は見晴らしのよい、丘の東の端にあります。

信長の父信秀は、自分の城を新しく築いて移っていった武将です。

そのことで戦の強さもさることながら、自分の経済基盤を盤石に築いています。

そういう合理性が信長にもあります。

そう考えると、徳川家康(1543-1616)も岡崎から浜松、駿府(静岡)、江戸へと必要に応じて自分の居城(本城)を移しています。

必要に応じて居城を移すという合理性を、きっと信長から学んでいたのでしょう。

織田信秀が亡くなって家督を継いだ織田信長は、自分に反旗を翻す親族一統を押さえて経済的な基盤を作り、その勢力をどんどん伸ばして行きます。

しかし、尾張を統一する最後まで信長が父信秀の家督を相続することに反対する一族が多くありました。

尾張のオオタワケ!として、その非常識な振る舞いが知れ渡っていたので、支持者の多い弟の信行も含めて、信長は織田一族を制圧して織田家一統の頂点に立たなければなりませんでした。

また、織田信長の家が、清洲城を拠点とする尾張国の守護代織田家に仕える奉行という家柄なので、織田一族の中での家格があまり高くなかったことも統一の困難さの理由として挙げられます。

しかし、彼はその困難な状況を粘り強く戦い、最後には解決してしまいました。

この末森城ができた天文17年(1548)当時の信長に関係する城と城主

この末森城ができた天文17年(1548)当時の信長に関係する主な城と城主は、

①末森城(城主織田信秀  1510頃-1552没、信秀没後、城主織田信行 生1536-1558 信長の弟)

②那古野城(城主織田信長  1534-1582没)

③古渡城(城主織田信秀  1510頃-1552没、信長の父が末森城に移り廃城)、

④守山城(城主織田信光、信長の父信秀の弟   1516-1556没 城主織田信次、信光の弟  生?-1574没)、

⑤清洲城(城主尾張四郡守護代織田信友  ?-1555没)、

です。

そのほかにも関係する城としては、犬山城、楽田城、小田井城、勝幡城、品野城、岩崎城、安祥城、鳴海城があります。

しかし困難な中、信長は父の信秀が末森城で亡くなって以降、織田信秀の家督を継ぎ、尾張に割拠している織田一族の統一に取りかかります。

そのときに戦ってきた相手が、ここに書いたそれぞれの城主や家臣たちです。

そして信長は、ついに弘治元年(1555)清洲城に居る主君筋に当たる尾張守護代の織田信友を滅ぼします。

そして信長は、ついに弘治元年(1555)清洲城に居る主君筋に当たる尾張守護代の織田信友を攻め滅ぼします。

そのときに信長に協力した織田信光を一時期清洲城に入れますが、その後まもなく信長自身が清洲城の城主になります。

信長が清洲城に入るということの意味は大きくて、信長にとってもその一族にとっても、信長が尾張国の支配者として君臨する者という象徴であり、国外の勢力にも尾張の支配者として認められることになります。

信長は、きっと「清洲城主としてこの城に入ること」これが自分の戦国大名としてのスタートラインであると思っていたはずです。

この末森城が築城された時代に信長に関係する人物と出来事。

①織田信秀(1510-1552)信長、市の父で茶々(淀殿)ら浅井三姉妹は市の子であり信秀の孫。

 1536(天文7年頃)今川氏豊の居城 那古野城を奪う (現在の名古屋城二の丸にあった) 今川氏豊とは連歌を通じて親しくしていた。

 1539(天文8年)古渡城(ふるわたりじょう)を築き熱田の港を押さえ経済的基盤を築く。ここに本城を移し那古野城を信長に譲る。

 (現在の名古屋市中区、浄土真宗名古屋別院(東別院)はその跡地。

 1547(天文16年)竹千代(家康)(1543-1616)が織田方の人質になり熱田の嘉藤図書の屋敷にあずけられる。

 1548(天文17年)末森城築城

 *1547(天文16年)に真田昌幸(1547-1611)が生まれている(大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)1567-1615 の父)。

②織田信広(1531頃-1574)は織田信秀の長男ではあったが側室の子であったため家督は信長が継いだ。

 三河の前進拠点だった安祥城城主、今川松平軍に攻められ捕えられる。笠寺で織田方の捕虜となっていた竹千代(家康)と捕虜交換された。

③織田信長(1534-1582)

 1552(天文21年)織田信秀没、父信秀から家督相続 

 1554(天文23年)清洲城に移転

 1558(弘治4年/永禄元年)弟信行を暗殺 

 1560(永禄3年)桶狭間の戦)戦国大名に

④織田信行(1536頃-1558)信長の弟で、信秀亡き後の「末森城主」

⑤織田信光(1516-1556)織田信秀の弟で、守山城主、信長に協力した後「清洲城主」

⑥織田信次(?-1574)織田信光の子、信光が清洲城に移った後の守山城主

⑦織田信友(?-1555)尾張4郡を支配した守護代の清洲織田氏

*年代が城の説明パネルや教育委員会の解説板などで年次が1年ほど異なっているのですが、ここでは名古屋市教育委員会の示す年を採用しています。

 

 

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