末森城が要らなかった信長。
父織田信秀が築城した末森城を信長はもらいませんでした。
末森城は織田信秀(1510頃-1552)が天文17年(1548)に築いた城です。
信秀は織田信長(1534-1582)の父でこの末森城で亡くなっています。
物語や映画などでは酒と女に溺れている父親の信秀が、策略にはめられて早死にさせられようとしていることを信長が見抜きます。
それを逆手にとって織田一族内での敵・味方をあぶり出します。
そして、ついには清洲城を手に入れてしまう。
そんなストーリーが描かれているものもあります。
末森城は現在は末森城址が城山八幡宮になっていて名古屋では有名な八幡宮です。
末盛城跡
天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城(現在の名古屋東別院のある場所)から移った。
守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。天文21年(1552)、信秀はこの地で病死し、
三男信行が城主となった。その後、信行は、兄信長と対立し、稲生原(いのうがはら)の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)
清洲城で謀殺された。城は翌年廃城となったと言われる。
城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺構がよく残っている。
名古屋市教育委員会
末森城が秘めている戦国時代を勝ち抜くための城主の頭脳的戦略の意味
信長の父信秀が1552年にこの城で亡くなりました。
そしてその後、信行(信長の弟1536-1558)が末森城の城主になりました。
城の場所は名古屋の東、千種区城山町にあります。
名古屋市営地下鉄東山線の覚王山駅(かくおうざんえき)と本山駅の間です。
覚王山周辺は丘や谷が入り組んだ地形になっています。
そこから東方面は急な下り坂になっています。
そういう地形なので末森城は丘の東端の見晴らしのよい場所に建てられています。
信長の父信秀は、自分の城を新しく築いて移っていった武将です。
信秀は戦の強さもさることながら、そうすることで経済基盤を盤石にしています。
そういった合理性を信長も受け継いでいます。
しかし末森城は信長には要らなかったのです。
自分の考え方に合わなかったからです。
家康は信長から築城の意味を学んでいた
一方で、徳川家康(1543-1616)も城を転々と変えていきます。
岡崎から浜松、駿府(静岡)、江戸へと必要に応じて自分の居城(本城)を移します。
たぶん、必要に応じて居城を移すことの合理性を、信長から学んでいたのでしょう。
信長が末森城を要らなかったのは、父とは勢力を伸ばしたい方角が違っていたからです。
自分に反旗を翻す親族一統を押さえて経済的な基盤を作ります。
そして、その勢力をどんどん北から西に伸ばしていきます。
しかし、信長が尾張を統一するまでは父信秀の家督を相続することに一族は反対でした。
信長が末森城が要らなかったように思えるのは、末森城が織田家の本城からでしょう。
一族が反対するなかで織田家本城を相続する事を戦略として控えたともいえます。
そのような事情もあったはずです。
尾張のオオタワケ!として、その非常識な振る舞いが知れ渡っていました。
しかし、自分が家督相続するためには織田一族を信長自身が制圧する必要がありました。
そして織田家一統の頂点に立つ必要がありました。
しかし、彼はその困難な状況のなかで粘り強く戦い、最後には成し遂げてしまいました。
この末森城ができた天文17年(1548)当時の信長に関係する城と城主
この末森城ができた天文17年(1548)当時の信長に関係する主な城と城主は、
①末森城(城主織田信秀 1510頃-1552没、信秀没後、城主織田信行 生1536-1558 信長の弟)
②那古野城(城主織田信長 1534-1582没)
③古渡城(城主織田信秀 1510頃-1552没、信長の父が末森城に移り廃城)、
④守山城(城主織田信光、信長の父信秀の弟 1516-1556没 城主織田信次、信光の弟 生?-1574没)、
⑤清洲城(城主尾張四郡守護代織田信友 ?-1555没)、
です。
そのほかにも関係する城としては、犬山城、楽田城、小田井城、勝幡城、品野城、岩崎城、安祥城、鳴海城があります。
四面楚歌の中、織田信長は尾張に割拠している織田一族の統一に取りかかります。
そのときに戦ってきた相手が、ここに書いたそれぞれの城主や家臣たちです。
そして信長は、弘治元年(1555)清洲城に居る尾張守護代の織田信友を滅ぼします。
そして信長は、弘治元年(1555)清洲城に居る尾張守護代の織田信友を滅ぼします。
そのときに信長に協力した織田信光を一時期清洲城に入れます。
しかし、その後まもなく信長自身が清洲城の城主になります。
信長が清洲城に入るということの意味は大きいことです。
それは、信長が尾張国の支配者として君臨するという象徴的なことだからです。
国外の勢力にも尾張の支配者として認められることになります。
信長は清洲城主になることが、戦国大名のスタートラインであると思っていたはずです。
末森城が築城された時代の信長に関係する人物と出来事。
①織田信秀(1510-1552)
信長、市の父で茶々(淀殿)ら浅井三姉妹は市の子であり信秀の孫。
1536(天文7年頃)今川氏豊の居城 那古野城を奪う (現在の名古屋城二の丸にあった) 今川氏豊とは連歌を通じて親しくしていた。
1539(天文8年)古渡城(ふるわたりじょう)を築き熱田の港を押さえ経済的基盤を築く。ここに本城を移し那古野城を信長に譲る。
(現在の名古屋市中区、浄土真宗名古屋別院(東別院)はその跡地。
1547(天文16年)竹千代(家康)(1543-1616)が織田方の人質になり熱田の嘉藤図書の屋敷にあずけられる。
1548(天文17年)末森城築城
*1547(天文16年)に真田昌幸(1547-1611)が生まれている(大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)1567-1615 の父)。
②織田信広(1531頃-1574)は織田信秀の長男ではあったが側室の子であったため家督は信長が継いだ。
三河の前進拠点だった安祥城城主、今川松平軍に攻められ捕えられる。笠寺で織田方の捕虜となっていた竹千代(家康)と捕虜交換された。
③織田信長(1534-1582)
1)1552(天文21年)織田信秀没、父信秀から家督相続
2)1554(天文23年)清洲城に移転
3)1558(弘治4年/永禄元年)弟信行を暗殺
4)1560(永禄3年)桶狭間の戦)戦国大名に
④織田信行(1536頃-1558)信長の弟で、信秀亡き後の「末森城主」
⑤織田信光(1516-1556)織田信秀の弟で、守山城主、信長に協力した後「清洲城主」
⑥織田信次(?-1574)織田信光の子、信光が清洲城に移った後の守山城主
⑦織田信友(?-1555)尾張4郡を支配した守護代の清洲織田氏
*年代が城の説明パネルや教育委員会の解説板などで年次が1年ほど異なっているのですが、ここでは名古屋市教育委員会の示す年を採用しています。