2021

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写真:隣松寺(りんしょうじ)の仁王の横顔が美しい。@豊田市

隣松寺の仁王門には阿吽の仁王が左右にあり、門をくぐる者を睨んでいますが、その体の色が金属や屋根瓦と同じ質感なので、鬼瓦のように彫刻された後に窯で焼締められたものではないかと想像しています。もしかしたら、墨を何回にも重ね塗って仕上げているのでしょうか。とても珍しい色です。
徳川家康

写真:高月院が女性的な柔らかさで迎えてくれるのは、将軍門まで緩く続く段々につながる橙色の塀の道から仰ぎ見る寺の姿に秘密がありそうです。

高月院には柔らかさがある。山門に段々と続く橙色の練り塀がよい。土塁と城壁のように見える参道を囲う白い壁に秘密がありそうでだ高月院の女性的な柔らかさはこのことに理由がある。やさしく迎えてくれると感じる。将軍門(最初の門)までを歩く緩く上る道と...
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写真:大樹寺の三面八臂の馬頭観音像は、正面の人にも、右側を通って多宝塔に参る人にも、そして三門の外の歩道を歩きながら石垣の隙間から覗いていく人にも、チャンと目線を合わせてくれます。サービス満点です。

大樹寺の三面八臂の馬頭観音像は、正面の人にも、右側を通って多宝塔に参る人にも、そして三門の外の歩道を歩きながら石垣の隙間から覗いていく人にも、チャンと目線を合わせてくれることです。サービス満点です。ところが、正面から見る限り左右の顔がそんな...
徳川家康

徳川家の菩提寺、愛知県岡崎市の大樹寺には、松平家初代から徳川家康までの松平家九代の墓があります。

徳川家の菩提寺大樹寺。大樹寺鐘楼本堂屋根瓦松平八代墓所大樹寺愛知県岡崎市の大樹寺には、松平家初代から徳川家康までの松平家九代の墓があります。亡くなった年齢を見ると、家康の父広忠と祖父清康は家臣に暗殺されてしまい、24歳と25歳という若さで亡...
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写真:本宗寺の塀は門前を通る道から少し控えて建てられているので寺の前はゆったりとして落ち着いた雰囲気があります。

本宗寺の塀は門前を通る道から2mほど控えて建てられているので、寺の前はゆったりとして落ちついた雰囲気があります。時の権力者が誰かが寄進して建てた大きな山門こそありませんが、美しい筋塀に続く上品な山門が雅な景色を作っています。ただ、門に使われ...
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写真:西尾城は鎌倉時代の前半に足利義氏が建てた西条城が始まりと言われています。この地、吉良荘(きらのしょう)の守護職であった義氏が、息子らを地頭として吉良に入れ矢作川を中心に西には西条城(西尾城)、東には東条城を置いて吉良荘を支配させました。

西尾城は鎌倉時代の前半に足利義氏が建てた西条城が始まりと言われています。この地、吉良荘(きらのしょう)の守護職であった義氏が、息子らを地頭として吉良に入れ矢作川を境に東西に分けて、西には西条城(西尾城)、東には東条城を置いて吉良荘を支配させ...
徳川家康

妙源寺は三河一向一揆の時に家康をかくまい助けた寺院です。当時の本尊は増上寺の安国殿に安置されている黒本尊です。@岡崎市 

家康の念持仏黒本尊はもとは妙源寺の本尊でした。柳堂妙源寺は、三河一向一揆の時に家康をかくまい助けた真宗高田派の寺院です。1235年に親鸞が説法を行ったといわれる重要文化財の柳堂があります。JR西岡崎駅を挟んで少し南にある上宮寺の顕彰碑には、...

写真:桶狭間の戦いのあと、徳川家康は19歳(1560年)の時に自分が生まれた岡崎城に戻りました。その後、ここを拠点として対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。

家康は19歳で岡崎城主になりました。大樹寺三門(山門)と総門越しに見る岡崎城桶狭間の戦いのあと、自分が生まれた岡崎城に戻ったのです。その後、この城を拠点にして対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。そして、1570年(元亀元年)に浜松城を築城し...
徳川家康

写真:伊賀八幡宮は松平氏第四代、安祥松平氏初代の松平親忠公が伊賀の国から1470年にこの岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。

伊賀八幡宮は徳川家の守神です。伊賀八幡宮随神門松平家第四代松平親忠が伊賀の国から移し祀りました。伊賀八幡宮は、松平氏第四代松平親忠(ちかただ)公が伊賀の国から1470年に、岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。それ以来伊賀八幡宮の地名...
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写真:リニア中央新幹線名古屋駅工事のエリアが大きく広がっています。太閤通口の再開発につなげているようで雑居ビルなどがなくなり更地が広がり始めています。ずいぶん工事が進んでいる様子がうかがえます。

リニア駅工事のフェンスリニア中央新幹線名古屋駅工事のエリアが大きく広がっています。太閤通口の再開発にもつなげているようで、元々あったこの辺り一帯の雑居ビルがなくなり、更地が不連続に広がっているので、ずいぶんリニア新幹線の工事が進んでいる様子...
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写真:鷲津砦は、大高駅北200mの所にあり1559年(永禄2年)織田信長が今川方に奪われた大高城への物流と情報を遮断・監視する目的で丸根砦とともに築かれました。

鷲津砦前を通過する上り新幹線鷲津砦(わしづとりで)は、大高駅北200mの所にあり1559年(永禄2年)織田信長が今川方に奪われた大高城への物流と情報を遮断、監視する目的で丸根砦とともに築かれました。標高30m、東西25m、南北27mで、実際...
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写真:丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城の分断と監視、そして今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が築きました。

丸根砦内石碑丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城とを分断するために、また今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が北西600mにある鷲津砦とともに築き、守将に佐久間盛重を入れました。丸根砦と大高城は大高川の流れる谷...
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写真:上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。1988年に消失した本堂は1996年にインドオリエンタル風のデザインで再建されており築地本願寺や名古屋西別院に似て洒落ています。

上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。1988年、三河一の伽藍を誇った木造の本堂を焼失しましたが、1996年にはこれまでのイメージを一新したデザインで建て替えています...
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写真:大高城に兵糧米を運び込む作戦は、今川義元から松平元康(家康)に任せられた役目でした。誰もやりたがらない困難極まりない仕事を抜群の作戦能力で切り抜け成功させました。

丸根砦から見た大高城跡(濃い緑の丘)大高城は、現在の名古屋市緑区にありJR東海道線の大高駅の南500mほどの距離にあります。また、700m東には織田方の丸根砦が、北東600mには鷲津砦があり、桶狭間の戦いがあった時代の今川方の最前線基地でし...
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写真:明治・大正時代の数学者、数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)教授の上宮寺滞在とその時の様子を伝える立て札が境内の百日紅のそばにあります。この寺とつながりのあった人の心を伝えていて、寺の歴史と文化を感じさせてくれます。

明治から大正時代にかけての数学者、数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)教授の上宮寺滞在とその時の様子を伝える立て札が境内の百日紅(さるすべり)のそばにあります(俳号は五城)。上宮寺には、その昔、三河一向一揆を主導した無骨な寺のイメージがあるので...
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写真:考える人(ロダン)には美しいS字ラインが隠されています。このラインは像を彫刻するときの黄金律です。しかし、このS字ラインを必ずしも彫刻作品に取り入れなければならないという訳ではありません。

京都国立博物館考える人(ロダン)には美しいS字ラインが隠されています。このラインは像を彫刻するときの黄金律です。しかし、このS字ラインを必ずしも彫刻作品に取り入れなければならないという訳ではありませんが、この美しい揺らぎは、見る人に微妙な美...
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写真:大樹寺は、松平、徳川家の歴代にわたる菩提寺です。桶狭間の戦いの後、松平元康(家康)は大高城から先ずこの大樹寺に入り領主としてのスタートを切りました。

大樹寺は、松平、徳川家の歴代にわたる菩提寺です。松平氏四代・親忠が建立しました。織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いの後、松平氏九代元康(家康)は大高城から先ず岡崎のこの大樹寺に入り3日間滞在の後岡崎城に入り三河岡崎の領主としてのスタート...
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写真:大樹寺の宝塔入り口の馬頭観音像の向こうの羅漢たちは、気まま間放題。ひと目なんか気にしていません。

大樹寺の羅漢は気まま放題。自由気ままな人の姿の見本市です。うつ伏せたまま、それも両足を揃えて足の裏を見せながらこっちを見ている羅漢像。面倒がらずに体を起こしなさい!。大樹寺の宝塔入り口の馬頭観音が教えてくれた、あっちこっちにいる羅漢像はあま...
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写真:家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺の羅漢像の中には怪しげなポーズの奴もいる。きっと人に見られたら困るようなことをこっそりとやっているに違いないのだ。

家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺の羅漢像の中には怪しげなポーズをしている奴もいます。きっと人に見られたら困るようなことをこっそりとやっているに違いないのです。何か隠し事のありそうなビクビクした目でこっちを見ています。羅=羅漢さ...
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写真:家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺。山門横の羅漢像は体全体で喜怒哀楽を表現しています。

家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺にある羅漢像は山門の近くの目立たぬ場所にあって喜怒哀楽を奔放に体全体で表現しています。羅漢像と対話しながらひとつひとつ見て回ると、こんがらがってもつれてしまった心が解(ほど)けます。羅漢像には表...
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写真:勝鬘寺の本堂の右側には立派な石碑が建てられていて、大きく彫ってある寺の名前の左には永禄六年三河一向一揆戦陣跡と刻まれています。開基は1258年。

勝鬘寺(しょうまんじ)の本堂の右側には立派な石碑が建てられていて、大きく彫ってある寺の名前の左には「永禄六年三河一向一揆戦陣跡」と刻まれています。開基は1258年とあります。JR岡崎駅南800mの所にあります。車は境内と外に駐められます。三...
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