家康の念持仏黒本尊はもとは妙源寺の本尊でした。
妙源寺は、三河一向一揆の時に家康をかくまい助けた真宗高田派の寺院です。
1235年に親鸞が説法を行ったといわれる重要文化財の柳堂があります。
JR西岡崎駅を挟んで少し南にある上宮寺の顕彰碑には、当時の住職が妙源寺(明眼寺)の柳堂で行われた親鸞上人の布教を聴きにいったと書いてあります。







国指定重要文化財
妙源寺建造物 妙源寺柳堂(附逗子一基、須弥壇一具、棟札)
妙源氏は、三河真宗最初の道場といわれる。正嘉二年(1258)の創建で、
開基は河内国阿倍野から移り在地領主となった安藤薩摩守信平である。柳堂は安藤氏が奉持した聖徳太子御直作の尊像を安置した太子堂と伝わる。
堂前に柳の大樹があったので柳堂と称した。建立年代は明らかではないが、
残存する棟札によると、現在の堂は正和三年(1318)から慶長十八年(1613)までの再建と考えられる。
三間四方、寄棟造、檜皮葺、向拝一間付で、内部は仏壇表に禅宗様須弥壇を置き、その上に一間入母屋造の逗子を安置し、簡素な棹縁天井が低く張られている。
様式的には15世紀前半(室町時代)のものであり、浄土真宗寺院の初期の建築様式がよく残る、きわめて貴重な建造物である。
明治三十六年四月十五日指定絵画
絹本著色善光寺如来絵伝 三幅
絹本著色法然上人絵伝 三幅
絹本著色親鸞聖人絵伝 三幅各絵伝とお大和絵の画風を伝え、霞の巧みな表現など優れた描写をみせる。
鎌倉時代の制作と推定される。
大正七年四月八日指定絵画
絹本著色光明本尊 三幅鎌倉時代の作。構成の光明本尊は一幅構成を定型とするが、本図は三幅構成をとっており、初期的様相をうかがわせる点で貴重である。
平成二十六年八月二十一日指定他に岡崎市指定文化財十三件
岡崎市教育委員会
家康は一向一揆の収束を願い妙源寺本尊の阿弥陀如来に夜通し祈りました。
そうすると一揆を収束できたことから、この本尊にひとかたならぬ思いがあったようです。
またその由緒も聞かされて知っていたのでしょう。
妙源寺から譲られて、家康の念持仏「黒本尊」となります。
家康の念持仏黒本尊は若い家康がひたすら祈った阿弥陀如来像でした。
この阿弥陀如来を彫った人物は、平安中期に活躍した恵心僧都源信という方です。
かつては清和天皇の流れをくむ「清和源氏」の守り本尊であったと伝えられてます。
それが、源義朝→平清盛→常盤御前→源義経と伝わり、義経が奥州に行くときにこの寺に預けました。
そのような由緒があるからこそ、家康は懇願して本尊を譲ってもらったのだと思います。
家康は本尊を譲ってもらってからは、陣中にもこの阿弥陀如来像を安置し戦勝を祈願していたと伝わっています。
江戸に幕府を開いた後も変わりなく阿弥陀如来像を持仏として身近に置いていました。
そのご家康が亡くなってからこの阿弥陀如来像は増上寺に奉られました。
現在も芝増上寺に安置されており、本堂の隣の安国殿に「秘仏の黒本尊」として伝えられています。
木製の阿弥陀如来の大きさは、身の丈78㎝と言われています。
そんなエピソードのある妙源寺には有名な武将も眠っています。




安藤直次 紀伊州藩附け家老、紀伊田辺藩主、江戸幕府老中で家康に信頼されていることがわかります。
高木清秀 徳川十六神将のひとり 息子の正次は河内国丹南藩主となる。高木氏は明治まで続いています。
本多助左衛門忠豊、本多平八郎忠高 有名な徳川四天王のひとり、本多平八郎忠勝の祖父と父の墓です。
徳川四天王:酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政 。
家康の念持仏黒本尊は今風に呼ぶと超ブランド品でした。
妙源寺の紹介番組岡崎市チャンネル岡崎 https://www.city.okazaki.lg.jp/910/1765/p020127.html