徳川家の菩提寺、愛知県岡崎市の大樹寺には、松平家初代から徳川家康までの松平家九代の墓があります。亡くなった年齢を見ると、家康の父広忠と祖父清康は暗殺されてしまい、24歳と25歳という若さで亡くなっています。最終的には天下を治める逸材、徳川家康を輩出するのですが、歴代の当主達は懸命に子孫に命をつないできたのでしょう。
お墓の前に立つとそれが一番力を注いできたことなのだと皆さんから声をかけられているような錯覚を覚えます。
松平氏は諸家に分かれながらもその主流は豊田市の松平郷から南の岡崎市北部の岩津に本拠を移し、そして安城市の安祥城を拠点とします。その後、岡崎城にその拠点を移し、元康(家康)の時代に三河の支配を確立します。それを基盤に東征し、やがて江戸幕府を開くことになります。
そのような基盤作りのための力を家康に残した先祖累代の墓がこの大樹寺にあり、松平宗家九代が横一列に並んでいます。
大樹寺は松平家は5代長親の時代に菩提寺としてこの寺を開山していますが、特に桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れてしまい元康(家康)が岡崎に戻って来たときに、まず松平氏の菩提寺である大樹寺に入ったことで、住職の登誉上人から諭され厭離穢土欣求浄土の薫陶を受けます。さらには、家康を狙い大樹寺を囲んだ残党狩りから命を守ります。
その後、日を置かずして今川勢がいなくなった岡崎城に入り、すぐに三河の平定に取り組みます。この動きがやがて天下取りの活躍へとつながっていきます。
これらの話はとても有名な話なのでどこかで読んだり聞いたりしたことがあると思いますが、この「大樹寺」の存在が家康のその後の活躍を決定づけています。
それは単なるラッキーではなくて、ここに並ぶ家康の累代に及ぶ先祖に守られていたが故に天下を取ることができたと考えることができます。
一世一代の家康のピンチを救い守ったのは先祖が建立したこの大樹寺でした。
家康は自分ひとりで生きているのではないことを知った場所と言えるでしょう。
また、大樹寺の住職登誉上人に諭される直前まで、元康(家康)は、この墓前、ここでで腹を切る覚悟をしていたのでした。
使ったカメラ Nikon:D500 レンズ Nikkor DX 17-55mm F2.8