Photo 徳川家康 歴史

苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

2023/11/27

遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの恵那市明智町辺りまで広いエリアに勢力があったようです。 その拠点は美しい石垣で有名な岩村城のある恵那の岩村(恵那市岩村町)でした。 そして関ヶ原の戦い以降、岩村は岩村藩となり大給(おぎゅう)松平家が入った。 明智は旗本明智遠山氏6,500石の領地となり明治まで陣屋が置かれていました。 そして苗木の遠山氏は苗木城を居城とする10,500 ...

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Photo 動物

写真:動物たちの表情シリーズ1@東山動物園

2023/11/25

東山動物園のタイル壁画伊藤若冲の鳥獣花木図屛風を思い出しますhttps://artflow-jp.com/jakuchu-chojukabokuzu/ 動物たちの表情シリーズです。 名古屋市の東山動物園は大人気(昔からですが)、入園者でいっぱいです。 動物園は子供たちだけの場所ではありません。 心が疲れてしまったときに、考えを巡らせたり心を解(ほど)いて癒やされる静的な場所がお寺や神社です。 一方、動的(ダイナミック)に癒やされて心もいっしょに躍動し始めるパワースポットが動物園です。 試しに1人で行って感 ...

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Photo 動物

写真:神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。@東山動物園

2023/11/22

神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。 10月にやってきたのですが、できて間もない新築のジャガー舎に入っています。 まだ慣れないせいか奥の暗い部屋の中を行ったり来たりしています。 人がいないときには外に出てくるようです。 暗いうえに動き回るのでうまく写りません。 マヤと言う名前は六甲山から西に尾根続きの摩耶山にちなんで名付けられたのでしょうね。 王子動物園は摩耶山の麓にあるし。 マヤは繁殖を目指して神戸から名古屋までやって来ました。 早くジャガーの子供が見たいです。 王子動物 ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)の墓所がある太融寺@大阪市北区

2023/11/23

太融寺(たいゆうじ)には秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)(1569-1615)の墓があります。 淀殿の墓は明治時代のはじめまでは、大阪城のすぐ北にある城東区鴫野(しぎの)というところにありましたが、明治10年11月、そこに城東練兵場が造成されるにあたり太融寺に移祀されました。(太融寺碑文) 淀殿の墓所を太融寺とした理由は、大坂の陣に於いて寺が豊臣方に味方した経緯があって、またその縁が深いことに拠るものです。 淀殿が1615年の大坂夏の陣で亡くなってから1877年(明治10年)までに262年もの年月が ...

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Photo ウォーキング 風景

写真:柚の木のトゲはイバラそのもの。こんなイバラの道など歩けるわけがない。そう思った。@東山植物園

2023/11/24

柚(ゆず)の木のトゲはイバラそのもの。 見ただけでも目に刺さりそうで痛くなります。 世間では、イバラの道など平気な顔をしてよく言われますが、歩けるわけがない。 軽い気持ちでそれを言う人をこのイバラの中に頭を突っ込んで差し上げたい。 そう思います。 東山植物園では秋になると日当たりのよい場所に植えてある柑橘類が実をつけます。 柚(ゆず) 温州(うんしゅう)みかん、柚、ダイダイなどがあります。 私は柚に惹かれます。 理由はトゲの痛そうなところとその香りです。 ダイダイ 温州(うんしゅう)みかん 東山植物園 h ...

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Photo ウォーキング 風景

写真:JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色の稲穂がコラボ。@日進市

2023/10/31

JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色に実った稲穂がコラボ。 きっとこの写真のような景色に溶け込むことをイメージして描かれたのでしょう。 実りの秋の2週間ほどが鑑賞のタイミングです。 お城のイラストは小牧長久手の戦いで家康の本拠地、岡崎を目指す秀吉軍を阻止するために全員が討死した城代の丹羽氏重以下200名が詰めていた岩崎城です。 黄金色の田んぼの中に立っている鉄塔を見上げて気分転換です。 岩崎城 http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/tatakai.ht ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:佐和山山麓の龍潭寺入口に座る石田三成像 @彦根市龍潭寺

2023/11/23

佐和山城山麓の龍潭寺(りょうたんじ)入口にある石田三成像は頭脳明晰な実務家を彷彿とさせる表情で京都大阪の方角?を向いて座っています。 石田三成の居城、佐和山城へは上の写真に見える入口から入り、龍潭寺の堂々とした山門をくぐります。 そこからまっすぐの所にある観音堂を右に折れて、城があった佐和山の頂上まで登ります。 三成の時代には龍潭寺はまだありません。 この辺りの佐和山の山麓に三成の屋敷を含め、秀吉から与えられた20万石ほどもあるこの地を治めるための機能が集まっていたと想像できます。 龍潭寺の山門の柱には、 ...

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写真:秋を探しにやって来たのに熱帯睡蓮の夏色のインパクトに目的を忘れてしまった。@東山植物園

2023/11/5

秋を探しにやって来たのに熱帯睡蓮の放つ夏色のインパクトにここに来た目的を忘れてしまいました。 東山植物園リンク https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/05_plant/

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写真:一枚の葉から紅葉が始まっている@東山植物園

2023/11/23

一枚の葉から紅葉が始まっている。

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Photo 風景

写真:中秋の名月 2023 

2023/10/20

2023年の中秋の名月は9月29日でしたが、天候によっては月が見えないこともあるので前日にも撮っておこうと思い撮影ポイントに向かいました。 満月の前日はたくさんの雲が空を覆ってましたが、強めの風が吹いていたので雲の流れが早く、ときおり雲の合間から月が顔を出すことがありました。 ただ、前日の写真は薄いながらも雲に邪魔された写真になってしまいました。 満月の前日ということもあり、月の左側がわずかに欠けています。 しかし、薄く雲がかかっているのですがクレータの稜線の陰影が強調されることでリアルな月の表情になりま ...

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Photo ウォーキング 徳川家康

写真:丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城の分断と監視、そして今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が築きました。

丸根砦内石碑
丸根砦内石碑

丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城とを分断するために、また今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が北西600mにある鷲津砦とともに築き、守将に佐久間盛重を入れました。

丸根砦と大高城は大高川の流れる谷を挟んで東西800mの距離にあります。また、大高城と連携している北北東の鳴海城とは2㎞の距離にあります。

丸根砦の規模は、海抜35m、東西36m、南北28mで、その周囲に外堀を巡らせており、地形はちょうどお椀を伏せたような丸い形をしていますが、その規模は大きくありません。と言うか小さい。

その砦に400~700人の兵を入れて守っているといわれますが、砦には建物が建っていたようなので500人も入ればギュウギュウだったように思います。

その状態でも人間ですから、食事もすればトイレにも行かなくてはならないので、そのための500人分の施設を作るといっぱいになっていたはずです。幸い砦を出てすぐ隣には砦よりも広く、下の谷の方角からは隠れた位置に神社があり有効に利用していたと考えるのが考えやすいと思います。

とはいえ、戦が始まれば全員砦に籠もって戦うという戦法になります。丸根砦は写真でもご覧いただけるように高い場所にあるので、攻める松平元康(家康)としては攻めにくいので、兵を三手に分けて鉄砲や弓を使った遠戦を仕掛けていたようです。

策もなく勇ましく砦に取り付いて登ろうとしても、上から弓や鉄砲でやられるだけなので、元康(家康)は犠牲者の少なくなる作戦を考えていたようです。

鉄砲は下から撃っても砦内の敵に玉が当たりません。これは想像ですが、弓矢をいっぱい空に向けて放ち、砦内の敵の頭上に矢を落とすことを延々と続けたのでしょう。そうすれば敵は逃げ場を失い、砦の外に打って出て戦うより他に手がなくなってしまいます。

丸根砦の大将、佐久間盛重が500の兵と砦の外に打って出て一丸となって向かってきたところを、信康隊(家康隊)は弓矢に鉄砲も交えて集中的の攻撃し相手がひるんだすきに乗じて砦に侵入し、砦内の施設を焼き払って旗を立てました。制圧を今川義元に示したようです。
気の毒なことに夜明け前から続いた戦いは、朝には守将以下全員が討ち死にしたと記録にあります。
1560年(永禄3年)のことです。

大高城兵糧搬入と丸根砦攻めは信長公記では同年と読める部分もありますが、改正三河後風土記では、兵糧米搬入と同じ5月なのですが1560年と1561年の二年にわたると注意書きがあります。ただ、理屈からすると昨年入れた兵糧が減っているので、今日明日にも今川義元が入城する予定なので今年もまた兵糧入れを行ったのでしょう。

実際にこの目で見ていないのとであまり深掘りや議論はできないので悪しからず!。

撮ってきた写真の中にある鉢巻き状に外周を巡っている道が当時の外堀だったもの思われます。

多勢に無勢で砦全員の玉砕が決まっていたような戦いです。砦からの支援要請にも信長は応えられませんでした。ものすごくつらい気持ちになってしまい無意識に戦没者を思い手を合わせていました。将兵が気の毒すぎます。しかしこの時代はそれが日常だったのでしょう。

使ったカメラ Nikon:D500 レンズ Nikkor DX 16-80mm F2.8-40

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