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写真:伊賀八幡宮は松平氏第四代、安祥松平氏初代の松平親忠公が伊賀の国から1470年にこの岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。

伊賀八幡宮は徳川家の守神です。

伊賀八幡宮随神門伊賀八幡宮は徳川家の守神
伊賀八幡宮随神門

松平家第四代松平親忠が伊賀の国から移し祀りました。

伊賀八幡宮は、松平氏第四代松平親忠(ちかただ)公が伊賀の国から1470年に、岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。

それ以来伊賀八幡宮の地名は下井田から伊賀と呼ぶようになったと伝わっています。

確かに伊賀八幡宮の前を流れる川の名前も伊賀川です。

その5年後に松平家の菩提寺、大樹寺も創建されたと伊賀八幡宮略記の中にみつけました。

松平(徳川)ケガピンチのときには鳥居が鳴動して救うなどの伝説が残されています。

鎮座以来伊賀八幡宮は徳川家の守神です。

伊賀八幡宮が鎮座した時代は松平家の基盤はまだ固まらない時期だった。

徳川家康公は安祥松平の嫡流で松平宗家の血筋です。

そういう意味で安祥城主となった松平親忠公が松平(安祥松平)初代とされています。

それからも、安祥城がずっと松平の城であったかというとそうではありません。

織田との争いの中で安城合戦と呼ばれた安祥城を巡る10年近い長い紛争が続きました。

それに勝つことにより松平宗家の基盤を築き上げることができたのでした。

しかし、それでも不安定な基盤であったために駿府の今川氏に頼らざるを得ませんでした。

松平家はそのような環境の中にあって幼少の家康が人質として今川に送られます。

そして家康は苦難の幼少時代を過ごしました。

松平宗家は、この松平親忠公から始まり、松平氏の嫡流はよくこの伊賀八幡宮を守ります。

戦乱を勝ち抜き徳川が将軍家となってからも変わらずに先祖が血を流して守り抜いた岡崎の地を大切にします。

19歳で岡崎に戻った家康にとって、伊賀八幡宮は精神的な拠り所となっていた

若干19歳で岡崎に戻った若い家康にとって、先祖が残してくれた伊賀八幡宮は精神的な拠り所となっていたに違いありません。

彼はこの伊賀八幡宮で出陣のたびに戦勝祈願をおこなっています。

そんな負け知らずの八幡宮として、今も「願」をかける人が大勢訪れます。

そんな伊賀八幡宮は三代将軍徳川家光により修理され美しく造営されます。

今でも美しさを保った建物は、家光公が寛永13年(1636)に造営されたものがほとんどです。

伊賀八幡宮HP https://www.igahachimanguu.com/

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