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写真 寺社仏閣 徳川家康

写真:上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。1988年に消失した本堂は1996年にインドオリエンタル風のデザインで再建されており築地本願寺や名古屋西別院に似て洒落ています。

上宮寺本堂

上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。
1988年、三河一の伽藍を誇った木造の本堂を焼失しましたが、1996年にはこれまでのイメージを一新したデザインで建て替えています。デザインはインドオリエンタル風で築地本願寺や名古屋西別院と通じるものがあります。


上宮寺での1562年の出来事が発端となり始まった三河一向一揆を先導したこの寺が、徳川家康から再興が許されたのは一揆が収束して20年後のことであると言います。
そもそも家康の家来が上宮寺の兵糧米を奪ったことが一揆の発端となったと伝えられていますが、ただ、その事件だけでは家康の家臣が分裂して殺し合うことなどは考えにくいことです。(本證寺発端説もあります)

若い家康ならこの地から排除しやすいのではないかと考えて、一向宗側が領地乗っ取りと支配のチャンスを伺っていたのではないかとも考えられます。

桶狭間の戦いの後、家康が領地岡崎に戻って間もない20歳の時に経験した信じられないような出来事でした。そして、一揆による漁夫の利を狙い、西三河の支配を企む反家康側の武将達の思惑なども重なり始まった出来事のように思われます。

それを承知していた家康は、反家康勢力をこの一揆によって炙り出し、一揆収束後には帰参を許したした家臣らとともに、直ちに攻め落とし、その全てを掃討征伐しています。

一揆側が家康に降参し一向宗の家来たちが帰参を許されて、岡崎の地は元の落ち着きを取り戻すのですが、一揆の中心となった一向宗の寺が再興を認められたのはそれから20年後のことでした。そのときの経緯が上宮寺にある家康の叔母でもある妙春尼公のお墓の立て札に説明されていました。

お寺に来ると、本堂伽藍や山門が新しくて今風な建物であることに意表を突かれます。昭和の時代に火災に遭い関係者による寄付で再建された本堂伽藍だからです。
昔ながらのお堂の再建をイメージしていた人が寄付した人の中にも多くいたはずだと思いますが、石碑にある本堂再建考え方を元に現代風なインドシルクロードをイメージさせるオリエンタルでエキゾチックな新しい本堂伽藍を再建しました。

上宮寺には、新しい時代を迎えるためには何か固執しているものを良い意味で払拭しようとするエネルギーを伝統的にもっている寺だということを感じます。
それはまた、上宮寺は仏舎利を戴いているという誇りと聖徳太子に由来する寺の起源が滲み出ているのものだろうとも考えたわけです。
三河一向一揆の時代には、そのような革新性が一揆に向かわせ、もしかしたらそういったところを他者に利用されてしまったと言えなくもないように思えました。これまで気がつかなかった見え方です。
これは実際に上宮寺に来て気がついたことです。足を運んで良かったと思います。

上宮寺顕彰之碑
上宮寺顕彰の碑

上宮寺HP:https://jyoguji.com/

名古屋別院HP:http://www.tokai-hongwanji.net/hn/hn_2.html
築地本願寺HP:https://tsukijihongwanji.jp/info/history/

築地本願寺本堂写真:https://tsukijihongwanji.jp/wtkjp/wp-content/uploads/2019/06/pageHistoryPageArticleSec-04.jpg

使ったカメラ Nikon:D500、D5600 レンズ Nikkor DX16-80mm F2.8-4.0 、DX18-140mm F3.5-5.6

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