桶狭間の戦いのあと、徳川家康は19歳(1560年)の時に自分が生まれた岡崎城に戻りました。その後、ここを拠点として対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。その後1570年(元亀元年)には浜松城を築城し東に向けて領地拡大を目指すのですが、岡崎城を居城としていた10年の間に三河を平定したことが、その後の家康の運命を決定づけているようです。
言ってみれば、岡崎での成功で家臣も彼についてきたし、その後の多くの苦難にも心底頼れる家臣とともに乗り越えてこられたのでしょう。
強うそうに見えないのに戦に勝ってしまう。兵の采配のセンスと頭の良さは、大高城兵糧搬入を始めとした家康の野戦の能力が敵将にも伝わり、家康が並の大将ではないことを誰もが認めるところとなります。特にこれまで敵将だった織田信長が家康が桶狭間の戦いの後、岡崎に戻った家康にすぐに同盟を持ちかけるなど敵にも評価されていたことがわかります。
1573年1月(元亀3年の12月)の三方原の戦いで西進してきた武田信玄に負けてしまいますが、それでも家来達の命をかけた犠牲の甲斐あって家康は命を落とすことなく更なる高みを目指すことができました。
しかし、一方の武田信玄は三方ヶ原の戦いに勝った後、1573年(元亀4年)始めに野田城を攻めた後の4月に亡くなってしまったようです。
家康は天も味方する強運の持ち主です。
岡崎城はどっしりとした構えの天守閣で安定感があります。また掘りが深く川が自然の要害になっていて攻めにくい構造になっています。
岡崎市の史跡指定の申請調では、
岡崎城は、三河守護職であり大草城主の西郷弾正左衛門頼嗣(さいごうだんじょうざえもんよりつぐ)が享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて築城し、その後松平清康(後の徳川家)に譲り、以来徳川幕府発祥の地となり、田中、本多、水野、松平、本多を経て、明治四年廃藩、同六年から七年にとりこぼち(建築物を壊す)となったが、同八年以来公演として本丸の保存につとめ、昭和三十四年三月三十日三層五重の天守閣と井戸やぐら、附やぐらが復元され、一層昔をしのばせるものである。
との理由で史跡指定申請されています。
また、岡崎城は東西に流れて矢作川に合流する乙川(お城の近くは菅生川と呼ばれていた)の北岸の河岸段丘上の龍頭山(標高24m)と呼ばれる要衝の地に立地しています。
岡崎城主だった祖父、父、長男は若くして亡くなっていて家康の悲しみがこの城ある。
岡崎城主だった家康の祖父の清康は25歳で、父の広忠は24歳で、長男の信康は21歳で亡くなっています。家康自身は浜松、駿府、江戸と順番に拠点を移し、75歳(満73歳)で亡くなっているのですが、家康を除いて祖父、父、長男の3人の城主が若くして亡くなっています。
家康が関東異封となり三河、静岡エリアを離れた後には、豊臣秀吉の家来だった田中吉政が11年間城主を務めています。その後は、水野氏、松平氏、本多氏がそれぞれ城主を務めて明治時代を迎えています。
そんな理由から、写真のように岡崎城の瓦は徳川の三つ葉葵の紋ではなく本多家の立葵の紋になっています。徳川の三つ葉葵だと思っている方もいらっしゃると思うのですが、本多氏藩主で自分の城だったのでそうしたのでしょう。
大手門を入るとすぐに三河武士の館や徳川家康、本多平八郎忠勝の銅像があります。また浜松時代に家康が書かせた「しかみ像」の石像も設置されています。
岡崎城にある家康の銅像は、なかなか上手く撮れません。
それぞれの像の写真の撮影は、時間帯によって日の高さや向きが異なるので陰になってしまって上手く撮れないことが多くあります。
顔の部分の露出と測光に注意して表情が撮れるように背景の明るさのバランスに注意を払いながらシャッターを押します。
カメラの機能が進化したので比較的銅像の顔が暗くならずに撮れるようになりましたが、スマホのカメラでは撮りにくく感じています。
岡崎城には写真を撮影するポイントがたくさんあるので何度かに分けて写真をアップしたいと計画しています。
使ったカメラ Nikon D500 レンズ DX Nikkor 17-55mm F2.8