写真 徳川家康

写真:大高城に兵糧米を運び込む作戦は、今川義元から松平元康(家康)に任せられた役目でした。誰もやりたがらない困難極まりない仕事を抜群の作戦能力で切り抜け成功させました。

丸根砦から見た大高城
丸根砦から見た大高城跡(濃い緑の丘)

大高城は、現在の名古屋市緑区にありJR東海道線の大高駅の南500mほどの距離にあります。また、700m東には織田方の丸根砦が、北東600mには鷲津砦があり、桶狭間の戦いがあった時代の今川方の最前線基地でした。その状態にある大高城に食料を運び込むという作戦を松平元康(家康)は戦わずして成功させました。

今川義元から松平元康(家康)に任せられた最前線基地の大高城に兵糧米を運び込む作戦は、誰もやりたがらなかった困難極まりない仕事でした。

そのことを承知しながら、全て自分で何とかするというのが、兵糧米の搬入を命じられた大将の役目なのです。1560年、18歳の元康(家康)は知恵を絞ったのでした(年代には諸説あります)。

というのも、大高城を見張っている織田方の丸根砦は標高35mの高い場所にあり、そこから丸見えだったはずの400mほどしか離れていない道を使って450俵の米を大高城内に運び込むという成功確率の低い仕事なのです。

戦(いくさ)では成功確率が低いということは、ほぼ死ぬという意味ですから、大高城に兵糧を運び込むと言うことはそれほどに困難な仕事でした。

そもそものこの作戦の目的は、戦いではなくて兵站、つまりロジスティクスなので確実に荷物を届けることが最優先課題だったのです。

多分今川義元は、兵糧米を大高城に運び込むには丸根砦と岩津砦を攻めて攻略してからでないと成功しないと算段していたのでしょう。戦わずして兵糧搬入を成功させたことに驚き賞賛しましたが、元康(家康)にはすぐに丸根砦の攻撃を命令しています。これにも高台にいる敵に対して銃と弓の飛び道具を駆使して勝利しています。

このことから搬入部隊はそれほど火力もあり重装備だったことが伝わってきます。

元康(家康)は、大高城までの兵糧搬入作戦を成功させるために、その確信が得られるまで綿密に計画していた。

元康(家康)は、作戦遂行に当たって事前に物見を出し進む道筋を探らせています。それに対して物見に出た杉浦勝吉からは、道幅は広いことや丸根砦に詰めている織田軍の様子を見て「戦を待つ敵にあらず」との報告が上げられています。

丸根砦を守る織田方の兵が襲ってきた場合、仮にそれを打ち負かすことが出来たとしても、兵糧米を奪われたり交戦中に火をつけられたり川に投げ込まれたりしてしまっては作戦は失敗です。幸い命があったとしてもその責任をとらされて切腹は免れないでしょう。

実際、荷駄を守りながらの行軍はどのようなものだったのでしょうか。

その内容が三河続風土記にあり、作戦の見事さに驚かされます。歴史に残る理由がよくわかります。

馬1頭に3俵の米を背負わせて、馬に口付き2人がつきます。その数が馬150頭、米450俵、口付300人。これが荷駄の全容です。

これを3隊に分けて大高城まで進みます。

そしてこれを護衛する兵が800人で、これも三隊に分けて荷駄の前後左右に付き、弓や鉄砲で武装して荷駄を護衛します。

行軍の先頭からから

①(荷駄)平岩七之助 ・右護衛)大久保五郎右衛門 ・左護衛)杉浦八郎五郎  

②(荷駄)榊原七郎右衛門 ・右護衛)鳥井四郎左衛門 ・左護衛)石川十郎左衛門 

③(荷駄)酒井雅楽助 ・右護衛)大原左近右衛門 ・左護衛)成瀬八郎  最後尾遊軍部隊 本多平八郎 という隊列です。

それぞれの隊は50mほどの距離を保って進軍します。

この行軍方法に加えて、総大将の元康(家康)は敵に攻めかけられたときの緊急事態の対応方法について、ひとつの隊が攻撃されても他の隊は自分の隊を乱すような加勢をしないなど、荷駄を届けることを主眼に置いた詳細にわたる部隊のフォメーションを指示しています。

さらに、敵の丸根砦内の兵を少なくするために、豊田市の寺部や梅坪にある織田方の砦辺りを放火することで、丸根砦から救援部隊を向かわせるという陽動作戦を決行し砦内の敵方の兵力を減少させています。実際に兵力が少なくなっていた丸根砦からは足元を通過する荷駄とそれを守る元康(家康)の軍勢に対して攻撃を加えることができなかったようです。

このように、ひとつづつの戦術を複合させて、敵から攻めにくい環境を自ら作り出し兵糧の運び込みに成功しています。

また、敵に見つかりにくい夜間に決行されたようです。

このような記録を読むと、元康(家康)は、考えられる限りの戦略と戦術を駆使して、兵糧の搬入に成功するべくして成功したことがわかります。

自軍の兵力と武力の優位性、敵方の兵力抑制、安全な時間帯の選択、隙のない行軍体制、戦闘フォーメション、などを綿密に組み合わせて、兵糧米搬入のための理想の状態に近づけています。

元康(家康)はこのとき18歳。

もちろん家来の意見も採用されたでしょうけれども、その抜群の頭脳には驚かされます。

この記事の写真は、実際に元康(家康)軍が通ったと思われる場所やその近辺を撮影しています。当時と道の違いはあっても、地形は変わらないので位置取りはほぼ間違いないと考えています。

使ったカメラ Nikon D300s D500 

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