勝鬘寺(しょうまんじ)の本堂の右側には立派な石碑が建てられていて、大きく彫ってある寺の名前の左には「永禄六年三河一向一揆戦陣跡」と刻まれています。開基は1258年とあります。
JR岡崎駅南800mの所にあります。車は境内と外に駐められます。
三河一向一揆が語られるときには寺の名前ではなく地名の「針先」と呼ばれたりするようです。野寺にある本證寺のことを「野寺」と呼ぶのと同じです。
この勝鬘寺から小豆坂までは2.5㎞、上和田の大久保氏の砦までは1.5㎞で一揆方の最前線の陣となっていました。そこには家康の家臣200騎が籠もっていたと言われています。
勝鬘寺の略歴を読むと、「1563年に三河一向一揆が起こる。土呂 本宗寺(勝鬘寺南1.2㎞)等とともに戦陣と化し、蜂屋半之丞(はちやはんのじょう)、渡辺半蔵(わたなべはんぞう)らが立てこもって守護したが、翌7年1月20日、家康方の兵火にかかり、大伽藍も鳥有(うゆう)に帰する」。とあります。
蜂谷も渡辺も鑓の使い手として有名です。
蜂谷半之丞(1539年生まれ)は一揆の戦場で家康(1542年生まれ)の姿を見つけると顔を隠しながら鑓を抱えて逃げていたのだそうですが憎めないところがあります。残念にも家康が1564年豊川の吉田城を攻めたときに鉄砲でやられてしまいました。家康はそれを惜しみ娘に入り婿を世話して家を再興させてやります。蜂谷半之丞は一向一揆を終わらせるために家康と交渉したことでも知られています。
一方の渡辺半蔵(1542年生まれ)は帰参後家康とともにいくつもの戦を生き抜き江戸幕府の旗本となりました。やがて家康の直命により家康の九男義直の付家老となり、義直の名古屋城入城とともに家老として名古屋城に入っています。
歴史の出来事を思うとその主人公は年配の人達を想像してしまいますが、二十歳過ぎの若者達が命をかけて戦っていたことがわかります。また采配を振るっていたこともわかります。現代では考えられるないほど大人です。
勝鬘寺公式サイト http://www.shomanji.jp/