徳川家康

写真:桶狭間の戦いのあと、徳川家康は19歳(1560年)の時に自分が生まれた岡崎城に戻りました。その後、ここを拠点として対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。

家康は19歳で岡崎城主になりました。大樹寺三門(山門)と総門越しに見る岡崎城桶狭間の戦いのあと、自分が生まれた岡崎城に戻ったのです。その後、この城を拠点にして対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。そして、1570年(元亀元年)に浜松城を築城し...
徳川家康

写真:伊賀八幡宮は松平氏第四代、安祥松平氏初代の松平親忠公が伊賀の国から1470年にこの岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。

伊賀八幡宮は徳川家の守神です。伊賀八幡宮随神門松平家第四代松平親忠が伊賀の国から移し祀りました。伊賀八幡宮は、松平氏第四代松平親忠(ちかただ)公が伊賀の国から1470年に、岡崎に遷し祀ったのが始まりと言われています。それ以来伊賀八幡宮の地名...
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写真:鷲津砦は、大高駅北200mの所にあり1559年(永禄2年)織田信長が今川方に奪われた大高城への物流と情報を遮断・監視する目的で丸根砦とともに築かれました。

鷲津砦前を通過する上り新幹線鷲津砦(わしづとりで)は、大高駅北200mの所にあり1559年(永禄2年)織田信長が今川方に奪われた大高城への物流と情報を遮断、監視する目的で丸根砦とともに築かれました。標高30m、東西25m、南北27mで、実際...
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写真:丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城の分断と監視、そして今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が築きました。

丸根砦内石碑丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城とを分断するために、また今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が北西600mにある鷲津砦とともに築き、守将に佐久間盛重を入れました。丸根砦と大高城は大高川の流れる谷...
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写真:上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。1988年に消失した本堂は1996年にインドオリエンタル風のデザインで再建されており築地本願寺や名古屋西別院に似て洒落ています。

上宮寺は聖徳太子が全国巡業の折に見つけた霊樹で自らの像を造りそのお堂を作られたことを寺の起源として伝えています。1988年、三河一の伽藍を誇った木造の本堂を焼失しましたが、1996年にはこれまでのイメージを一新したデザインで建て替えています...
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写真:大高城に兵糧米を運び込む作戦は、今川義元から松平元康(家康)に任せられた役目でした。誰もやりたがらない困難極まりない仕事を抜群の作戦能力で切り抜け成功させました。

丸根砦から見た大高城跡(濃い緑の丘)大高城は、現在の名古屋市緑区にありJR東海道線の大高駅の南500mほどの距離にあります。また、700m東には織田方の丸根砦が、北東600mには鷲津砦があり、桶狭間の戦いがあった時代の今川方の最前線基地でし...
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写真:明治・大正時代の数学者、数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)教授の上宮寺滞在とその時の様子を伝える立て札が境内の百日紅のそばにあります。この寺とつながりのあった人の心を伝えていて、寺の歴史と文化を感じさせてくれます。

明治から大正時代にかけての数学者、数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)教授の上宮寺滞在とその時の様子を伝える立て札が境内の百日紅(さるすべり)のそばにあります(俳号は五城)。上宮寺には、その昔、三河一向一揆を主導した無骨な寺のイメージがあるので...
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写真:考える人(ロダン)には美しいS字ラインが隠されています。このラインは像を彫刻するときの黄金律です。しかし、このS字ラインを必ずしも彫刻作品に取り入れなければならないという訳ではありません。

京都国立博物館考える人(ロダン)には美しいS字ラインが隠されています。このラインは像を彫刻するときの黄金律です。しかし、このS字ラインを必ずしも彫刻作品に取り入れなければならないという訳ではありませんが、この美しい揺らぎは、見る人に微妙な美...
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写真:大樹寺は、松平、徳川家の歴代にわたる菩提寺です。桶狭間の戦いの後、松平元康(家康)は大高城から先ずこの大樹寺に入り領主としてのスタートを切りました。

大樹寺は、松平、徳川家の歴代にわたる菩提寺です。松平氏四代・親忠が建立しました。織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いの後、松平氏九代元康(家康)は大高城から先ず岡崎のこの大樹寺に入り3日間滞在の後岡崎城に入り三河岡崎の領主としてのスタート...
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写真:大樹寺の宝塔入り口の馬頭観音像の向こうの羅漢たちは、気まま間放題。ひと目なんか気にしていません。

大樹寺の羅漢は気まま放題。自由気ままな人の姿の見本市です。うつ伏せたまま、それも両足を揃えて足の裏を見せながらこっちを見ている羅漢像。面倒がらずに体を起こしなさい!。大樹寺の宝塔入り口の馬頭観音が教えてくれた、あっちこっちにいる羅漢像はあま...
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写真:家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺の羅漢像の中には怪しげなポーズの奴もいる。きっと人に見られたら困るようなことをこっそりとやっているに違いないのだ。

家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺の羅漢像の中には怪しげなポーズをしている奴もいます。きっと人に見られたら困るようなことをこっそりとやっているに違いないのです。何か隠し事のありそうなビクビクした目でこっちを見ています。羅=羅漢さ...
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写真:家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺。山門横の羅漢像は体全体で喜怒哀楽を表現しています。

家康がひとり立ちする最初のピンチを救った大樹寺にある羅漢像は山門の近くの目立たぬ場所にあって喜怒哀楽を奔放に体全体で表現しています。羅漢像と対話しながらひとつひとつ見て回ると、こんがらがってもつれてしまった心が解(ほど)けます。羅漢像には表...
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写真:勝鬘寺の本堂の右側には立派な石碑が建てられていて、大きく彫ってある寺の名前の左には永禄六年三河一向一揆戦陣跡と刻まれています。開基は1258年。

勝鬘寺(しょうまんじ)の本堂の右側には立派な石碑が建てられていて、大きく彫ってある寺の名前の左には「永禄六年三河一向一揆戦陣跡」と刻まれています。開基は1258年とあります。JR岡崎駅南800mの所にあります。車は境内と外に駐められます。三...
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写真:小豆坂で戦いが多かったのは四方が見渡せる高台なので敵の動きが見える上に戦いに臨んで有利な高い位置から戦えるから。東から松平を救援に来る今川勢が幸田側に現れても美合に現れてもすぐに対応できる位置にあるから。

小豆坂で戦いが多かったのは四方が見渡せる高台だから。そしてここに陣を敷いておくと、敵の動きが見える上に戦いに臨んで有利な高い位置から戦えるから。そして織田方とすれば、東から松平を救援に来る今川勢が幸田側に現れても本宿を通り美合に現れてもすぐ...
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写真:本證寺の蓮の花は目の前の手が届くところに咲いているので大きくパンチのある写真が写せます。山門の左右の掘りに咲く花は色が白で、本堂の南側の掘りに咲く花はピンクです。背景が違うので、雰囲気の違う写真が写せます。

本證寺の蓮の花は目の前の手が届くところに咲いているので大きくパンチのある写真が写せます。山門の左右の掘りに咲く花は色が白で、本堂の南側の掘りに咲く花はピンクです。背景が違うので、雰囲気の違う写真が写せます。真夏の太陽が頭の上から照っているの...
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写真:本證寺は鎌倉時代後期の13世紀末ころに開かれたと境内の説明にあります。そのお寺が歴史的に有名になったのは三河の一向一揆の拠点となってからです。

本證寺山門と鼓楼と内堀愛知県安城市野寺町にある本證寺は鎌倉時代後期の13世紀末ころに開かれたと境内の説明にあります。そのお寺が歴史的に有名になったのは三河の一向一揆の拠点となったことによります。だだ、それ以降江戸時代から明治まで将軍拝謁や尾...

写真:名古屋城本丸御殿上洛殿は尾張徳川家が三代将軍徳川家光に礼を尽くした造りです。美ヘのこだわりを持つ家光公に喜んで貰えることの意味は、とても大きい。

名古屋城本丸御殿上洛殿は絢爛豪華さのなかに無駄のない武家文化があります。上洛殿上段之間名古屋城本丸御殿上洛殿は、尾張徳川家が三代将軍徳川家光に対するおもてなしのための造りです。将軍への礼を徳川御三家筆頭である尾張徳川家が示したことの意味は、...
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写真:名古屋城本丸御殿対面所は上段之間と一之間を廊下から見通しで撮れませんでした。格調高く控えめで品のある意匠です。

本丸御殿対面所上段之間名古屋城本丸御殿対面所は上段之間と一之間を廊下から見通しで撮れませんでしたが格調高く控えめで品のある意匠です。御殿それぞれの間は、襖の絵や造りによって部屋の役割にふさわしく仕上げられています。撮影をパターン化することで...
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写真:名古屋城本丸御殿の表書院は最も格式の高い間として正式に藩主に謁見するときに用いられていました。表書院は建物の角にあり南と西からの採光で明るく晴れやかな間です。

名古屋城本丸御殿の表書院は最も格式の高い間として正式に藩主に謁見するときに用いられていました。表書院は建物の角にあり南と西からの採光で明るく晴れやかな間です。日が照ったり曇ったりするとずいぶんと部屋の印象が違って見えます。本丸御殿の表書院の...
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写真:尾張藩主来客用の、玄関二の間、一の間には狩野派による「竹林豹虎図」と呼ばれる襖絵があります。金箔を貼った上から描かれた竹林豹虎図は神々しく柔らかで愛嬌があります。

本丸御殿玄関一之間竹林豹虎図部分尾張藩主来客用の、玄関二の間、一の間には狩野派による「竹林豹虎図」と呼ばれる襖絵があります。金箔を貼った上から描かれた竹林豹虎図は神々しく柔らかで愛嬌があります。。今の言葉で表現すると静かでゴージャスです。藩...
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写真:地上に降りていた名古屋城天守閣の金鯱を元通りに戻す工事が行われています。

金シャチさんありがとうのメッセージが!地上に降りていた名古屋城天守閣の金鯱が地上から元の天守閣の屋根に上げられました。元通りに戻す工事が進められています。どうやって工事を行うのかが気になっていました。名古屋城のwebサイトを見ると、3ヶ月以...
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