名古屋城本丸御殿上洛殿は、尾張徳川家と血がつながった親戚でもある、将軍徳川家光に対する礼を尽くした造りです。徳川幕府(将軍)への礼儀を徳川御三家筆頭である尾張徳川家の威信にかけて目に見える形で示したことの意味はとても大きかったと思います。
実際に他藩の大名がこの御殿を見学して学んだのかどうかはわかりませんが、将軍への礼儀が具体的な例として目に見える形で存在することは後々大きな意味を持ったのではないかと思います。
そのことは、いずれ徳川家光の上洛に同行した近習から、他藩に尾張藩でのもてなしのことが伝わることは間違いないので、やはり大きな意味を持ったことは間違いないでしょう。
調べてみると、初代尾張藩主の徳川義直は徳川家康の九男で1601年生まれ、徳川家光は二代将軍徳川秀忠の子で1604年生まれで同年代です。
調べてみると、初代尾張藩主の徳川義直は徳川家康の九男で1601年生まれ、徳川家光は二代将軍徳川秀忠の子で1604年生まれで家康の孫にあたります。家光のお父さん秀忠と義直は兄弟です。徳川家光は、徳川家康、織田家、浅井家という名門の血を引く生まれであり、その血筋において異を唱えようのないほどのサラブレッドです。
家光と同世代である徳川家康の九男義直が、父家康の孫でもあり甥でもある将軍家光が上洛するときに、尾張藩主としてもてなすために増築したのが名古屋城本丸御殿上洛殿なのです。
そして、徳川家康がまだ現役の時代には、旅して名古屋を通るときには、清洲城の黒木書院を宿泊所として使っていたそうですから、その黒木書院を家康を尊敬する家光のためにわざわざ名古屋城本丸御殿に移築してもてなすというこの計らいは、家康の息子でなければできないことでしょうから、その念の入れようは見事です。
尾張藩は、徳川家の身内に対する計らいと、公的な身分に対する敬意と礼儀の2つのことを目に見える形で示すことができました。尾張藩の関係者は相当に頑張ったに違いありません。
そしてこの上洛殿によって義直が家康の息子であることの面目を大いに立てられたのではないでしょうか。家康を尊敬していた家光は、きっとこのもてなしに喜ぶやら恐縮するやらだったでしょうから尾張藩としての面目躍如は間違いなかったでしょう。
ただ、清洲城の廃城は1610年、家光が上洛殿に泊まったのは1634年なので、黒木書院は早くから本丸御殿に移築されていたのか部材が解体されて保存されていたのかの詳しいことはまだ調べられていないので今のところわかりません。
また表書院と対面所の上段之間には廊下に飛び出した付け書院がありますが、上洛団の上段之間にはありません。また、廊下の幅は対面所から鶯之廊下までは二間ですが、上洛殿では一間半になります。その理由は建った年代の社会背景にあるかもしれません。既に甲冑を着て御殿の中を行き来する時代ではなくなっていたのもその理由のひとつとして考えられます。
関ヶ原の戦い1600年、大坂夏の陣が1615年、本丸御殿完成が1615年、上洛殿完成は1633年、家光の上洛殿泊が1634年。こう考えると時代の流れと考えられなくはありません。
ただ、そのときには藩主義直はすでに二之丸御殿に移っていました(1620年)。
名古屋城本丸御殿 昭和実測図閲覧サービス https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/document/
使ったカメラ Nikon:D500 レンズ Nikkor DX 16-80mm F2.8-4.0
※なお、記事の内容は史実もございますが、筆者の想像で書いた部分もありますのでご承知の上お楽しみください。