江戸城跡、明治維新が示す新しい日本のあり方が洋風な橋と伏見櫓の和の風景に映し出されています。向こうに白く見える伏見櫓がもし西洋建築だとしたらそのようには見えないでしょう。これまでの日本を捨てるのではなく西洋の文化様式を取り込み混在させることによって生まれるであろう新しい日本の方向性を皇居御造営事務局の技手であった久米民之助氏と河合浩蔵氏に時代がデザインさせたように思うのです。
その時代に関係する知識に乏しい私には暗示的な風景に見えてしまいますが、その後の歴史を見るとそれも大きな間違いではないように思います。
たぶんそれは、私が明治維新を美化してしまったという一面もあるにしても、現実的には二重橋辺りの風景に限らず新しい国作りやそれに掛かる費用の工面などの諸事情が合わさって自然に和洋が混在してしまったというのが考えやすく現実的です。それにしても上手く融合しているのは不思議です。
二重橋とよく呼ばれている皇居正門石橋は明治20年12月の竣工だそうです。現在江戸城跡内には皇居があります。
勝海舟の氷川清和には、「江戸城の無血開城はなったが150万人の江戸の人々は幕府の瓦解とともにたちまち暮らしが立たなくなる。幕府から禄を貰っていた者はもちろんのこと、諸藩の藩邸に出入りしていた職人や商人なども、直接間接を問わず詰まるところ幕府のおかげで食って行けていたわけなので大問題が生じてしまう。もちろんその人達に新しい職業を与えなければならないのだが、その大問題のことを詳しく大久保利通に話したら断然遷都のことに決しようといった」(略)とあります。勝海舟の話では、このようにして遷都(京都から東京に)が決断されたようです。
江戸城はそれまでの日本の政治の中心地でした。経済の中心地は大阪でした。
現在では、政治や行政の中心は堀の向こうの国会議事堂や官公庁に移っていますし、経済も丸の内や大手町の名だたる企業を中心に全国に広がっています。
徳川家康の先祖の城は土塁に囲まれた小さな城ですし、家康が生まれた岡崎城ですらまだまだ小さな城です。しかし、徳川幕府が成立して、新しく日本を治めるために必要な機能を持つ壮大な城が必要になりました。その流れや日本の変容に驚きます。広すぎて歩くと疲れます。