写真展の不思議な疎外感はそこに自分の存在がないから。
写真展に行くと疎外感を感じるのは今に始まったことではありません。
東京都写真美術館からの帰りに自分の影が写りこんでいる作品をiPhoneで見たら、い~感じではないですか!。
写真展の不思議な疎外感からの開放です。
国際写真賞 プリピクテジャパンアワードの写真に失礼なことをしましたが私にはこの写真が特別です。
写真のなかに自分や自分に関わりのあるものがない、感じられないのでなにか物足りない気がしたり疎外感を感じてしまっいるのでしょう。
見ている写真が理解できない理由
それは自分との関わり意外にはありません。
身近、親近感、故郷、利害、好きな人、あこがれの場所、すきな街といったものです。
必ず見る人の主観に近付く必要があります。
それ以外の写真は雑誌のスナップや広告写真に似て感情移入がありません。
前物語もないし、これから物語も始まりません。
そう言ってしまうと写真は、見る人みんなに共通していい写真など無くなってしまいます。
評論家や学芸員はいろんな写真を網羅して頭の中に整理できているので、それを基準にします。
評論家はいろんな写真を網羅して整理しているので、それとの参照ですからそれをして、
いいとか、斬新とか、といった評価をくれます。
大きく隔たっています。
大多数のひとは、自分のスマホの待ち受け写真のなかの家族や子供が、
写真に違いありません。
父親の写真を東京まで見に行ったことがあります。
そのときは全く違和感を感じませんでした。