「信長塀」とは、織田信長が永禄3年5月19日(1560年6月12日)桶狭間に出陣の際、ここ熱田神宮に願文を奏上し見事勝利したことから、そのお礼として奉納した塀です。見てのとおり質実剛健な造りの塀で、重量感のある力強さを今に伝えています。
熱田神宮が桶狭間の戦いの陰で織田軍集結の地として大きな役割を果たしている。
熱田神宮は織田信長の居城清洲城から南南東へ直線距離で12㎞の位置にあります。
そして熱田神宮から今川方との決戦場桶狭間までは南東へ直線距離で9.5㎞の距離です。
ウィキペディアによると午前4時に5騎のみを連れて清洲城を出発し、8時頃に熱田神宮に到着。軍勢を集結させて戦勝祈願を行ったとあります。
歩くほどの速度で熱田まで移動したことになります。そのスピードなら配下の軍勢もすぐに追いつき熱田神宮で体制を整えられたと考えられます。
その後10時に善照寺砦(熱田神宮から直線距離で6㎞)に入り2000から3000人の軍勢を整え、13時くらいに3㎞南東の桶狭間で今川勢本隊との決戦となったようです。
ちなみに、清洲から桶狭間までは直線で約21.5㎞あります。(距離測定にはGoogleマップを使用しました)
これらのことを考え合わせると、信長は熱田神宮を戦略的にまた戦術的にも重要な役割を担う拠点として位置づけていていたことが想像できます。質実剛健な塀を奉納した理由も想像できなくはありません。
信長塀は昔は本宮をぐるっと囲っていた?
熱田神宮の信長塀は昔は本宮をぐるっと囲っていたようだと守衛の方から伺いました。熱田神宮は太平洋戦争の戦火で焼かれたり、戦後社殿の造営などで信長塀も失われたりした部分があるようです。もう本宮の南と西側にしか残されていないそうですが、それでも写真で見るように400年を過ぎても堂々たる姿を今に伝えています。よほど造りが良くないと、雨ざらし日ざらしでこれほどの状態を保つことは不可能です。
晴れた日でも、雨の日ならなおさら撮影しにくい被写体です。
絞るとISOは上げないとダメだし、シャッター速度は遅くなるので三脚を使うのがベストです。手持ちでも撮れなくはありませんが、後悔先に立たずでその手抜きの心をなくさないと上達はなさそうです。面倒でも進んでひと手間掛けることのできる心のユトリがない限り下手の迷宮から抜け出せないことを何度も思い知らされているのに。お前は手抜きの写真を見て貰ってうれしいのかと自問自答しています。真面目にやります。
コケコッコー!と鶏の声が聞こえる
写真を撮っていると鶏(神鶏)の鳴き声が熱田の森のどこかから聞こえてきます。鳴き声は教科書通りで、コケコッコーです。もう少し違っていても良いのではと思うほどです。あまりにも正しすぎて見事としか言いようがありません。とても大きな鳴き声です。
写真は、それぞれ写真ごとに撮影日や季節、天候が異なっています。悪しからず!。
使ったカメラ Nikon:D500 レンズ:Nikkor DX16mm-80mm F2.8-4.0