超一流の剣術によって将軍家や尾張藩の兵法指南役を目指した宮本武蔵。名古屋にその足跡があり笠寺観音には曽孫弟子による顕彰碑が立てられています。
将軍家の兵法指南役として江戸での就職(仕官)に失敗した宮本武蔵は、こんどは尾張徳川家の兵法指南役を目指して名古屋に滞在しますが、その時も志を果たせませんでした。
深くはわりませんが、全国に名が通っている剣豪なので、藩主御前での試合を披露することはできたのですが、将軍家にも尾張徳川家にも、いずれにも柳生一門が既にその地位(職)にあり宮本武蔵の願いはかなえられませんでした。
そのことが、愛知県立大学文学部教授の石川清之先生の監修のもとに名古屋市南区を紹介する公式ページの中に紹介されています。
その時の宿(宿坊)としていたのが笠寺観音の塔頭の一つである東光院です。その場所は笠寺観音の南門の通りを真っ直ぐ南に200mのところにあります。その東光院には宮本武蔵が自ら削って作ったと伝わっている木刀など、縁のものが残されています。
宮本武蔵のことを少し調べてみると、大坂の陣には水野勝成の客将として嫡子の水野勝重付きで活躍したそうです。それ以降大名などとのつながりを保ちながら、つまり武芸の需要がなくなってしまった平和な時代にあっても、自分の剣術と兵法の知識が認めれれ取り立ててもらえる少ないチャンスを狙って活動していたのではないかということが伺えます。
剣の道に燦然と輝く実績(歴史)を残した人物、宮本武蔵でさえも、その戦いのための剣術や兵法の必要性が薄れてしまった時代の中で葛藤していたように感じます。
既に数少なくなってしまっていた将軍家や大名家の兵法指南役のポジションは、特に宮本武蔵が目指したと思われる一流で権威のある将軍家やそれに続く家格を持つ大きな藩では、戦国の世を藩主とともに戦い抜いた実力のある家来が占めていて、宮本武蔵という日本一の武芸者と言えども当時の社会の壁を打ち破ることができませんでした。
実務能力一辺倒では中途採用されることは難しく、戦国時代に功があった家柄かどうかも影響しているように思えてなりません。
実務能力一辺倒では中途採用されることは難しく、戦国時代に功があった家柄かどうかも影響しているように思えてなりません。これは想像ですが、社会の潮流やその人が生きた時代も大きな要素ではありますが、宮本武蔵は有力な施政者の家来ではなかったし、TOPとの絆をこれから作り上げなければいけないという立場です。言い過ぎかもしれませんが藩主が腹から話ができるような信用をまだ得られてなかったのでしょう。
宮本武蔵が、これまでにそれなりに職を得ていた福山の水野家は家康のお母さんの家系ですし、姫路の本多家は本多忠勝の家系なので徳川家に対してモノ言える立場の大名です。
しかし宮本武蔵にはさらに上を目指して中央を目指す、つまり本流を目指したいという出世志向があったように感じます。同じ兵法指南の仕事をするなら自分のキャリアと実績にふさわしいのは将軍家以外にはないと・・・。譲歩したとしても尾張徳川家だと考えていたのではないでしょうか。
本人に聞いてみないとわかりませんが、資料等を読み比べているとそういうふうに思えてくるのです。
剣術の世界では右に出る者はいなくても、社会の仕組みと組織の中では剣術や兵法だけで生きていくには困難で、繰り返しいなりますが、既にそのポストは実際に戦ってきた実績をもつ有力者が占めていたし、その事実には抗しようがなかったはずです。軍事的采配の力量を実戦で示し成果を挙げてきた者たちは家康によって既に大名としての地位を与えられていた時代になっていました。
その様に考えてみると、今、就職の面接や試験に臨む人たちや、中途採用に臨む人達とも心の底で通じ合えるものがあるのではないでしょうか。
前出の石川教授によると
この碑は宮本武蔵が尾張を去った後に、尾張藩士・寺尾直正のもとめに応じ、義子である竹村与右衛門を自分の代わりによこしました。竹村は尾張に滞在して円明流(二刀流)を広め、林資源・林資竜親子や彦坂八兵衛といった弟子に免状を与えています。この林資竜の弟子の弟子にあたるのが左右田邦俊なのだそうです。
この碑を見ていると宮本武蔵の葛藤が伝わってくるようです。
※この記事には想像で書いている部分が多く含まれています。
使ったカメラ Nikon D300S レンズ:DX Nikkor 35mm F1.8