Photo 寺社 歴史

若山牧水 像 @新城市 鳳来寺山表参道

2023/9/19

9月17日は若山牧水 1885-1928 歌人。の命日です。 存命なら138歳です。 長年の度を超えた飲酒が彼の命を奪いました。 マントを羽織った牧水像は全く歌詠みの姿ではありません。 像にはたくさんの徳利や酒を飲む茶碗やらが詰め込まれています。 像の作者は彼を表現するにはこれしかない!というところまで練りに練ったのです。 その像が誰とも知らずに正面に立った私は、作者の意図するところもわからずに「なんだこれは!!」と目を見張りました。 傍の石にはめ込まれた説明板を読んでようやく作家の意図が飲み込めました。 ...

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Photo ナナちゃん

写真:ナナちゃんのプリキュアスタイル。@名鉄百貨店前

2023/9/4

ナナちゃんのプリキュアスタイル。 お昼時にナナちゃんお前を通ったら、女性がスモホをかざして写真を撮っていました。 今日(今週)のナナちゃんは女性が強く反応しているようです。 今日は普段のファッションと違ってアニメチックなスタイルだなと思いながら近づくと、9月15日から始まるプリキュアのロードショーのキャンペーンガールのコスプレでした。 “映画プリキュアが繋ぐ20の絆” これまで見ていてナナちゃんはコスプレがよく似合うと思います。 ただスポンサーはお金が掛かるので、悩むところです。 ナナちゃんだけの出演料は ...

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Photo 飛翔

写真:名古屋駅前のモニュメント「飛翔」の撤去後工事の進捗状況。2023.08.30

2023/9/2

撮影 2023.06.17 20230830 撮影 2023.08.30 名古屋駅前のモニュメント「飛翔」の撤去後工事の進捗状況。 名古屋駅前のモニュメント「飛翔」の撤去後工事後、コンクリートの土台部分を残してしばらくそのままの状態でしたが、コンクリートの土台部分が一部を残して取り除かれて舗装されています。 ロータリーの車線が変更されて少し大回りになっていることがわかります。 飛翔を支えていたコンクリートの土台部分は崩されて搬出され、アスファルトの舗装工事が行われています。 この舗装は一時的なもののように ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:東京の丸ノ内線本郷三丁目駅近くの三河稲荷神社は豊田市の稲荷山隣松寺にある稲荷社を家康が分社し江戸にも造営した歴史ある稲荷神社です。@文京区

2023/9/1

東京の丸ノ内線本郷三丁目駅近くの三河稲荷神社は豊田市の稲荷山隣松寺(りんしょうじ)にある稲荷社を家康が江戸にも造営した歴史ある稲荷神社です。 徳川家康が1590年に江戸に移ったときに三河の稲荷社から分社してわざわざ江戸城に社を造営しています。 家康はよほど頼りにしていた稲荷社だったのでしょう。 最初の頃は、家康がいる江戸城の吹上に鎮座していました。 以降、何度か遷座の歴史がありますが、現在はこの地に鎮まっています。 そのことについては、三河稲荷神社の由緒書に説明があります。 また、三河稲荷神社は京都の伏見 ...

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Photo 徳川家康 歴史

写真:酒井雅楽頭家と酒井左衛門尉家の上屋敷跡を歩いた。両家の威信や格式が感じられるエリアです。@千代田区大手町

2023/8/31

左衛門尉家上屋敷跡の風景 東京駅からほど近い大手町にある酒井雅楽頭家と酒井左衛門尉家の上屋敷跡を歩きました。 ここは、酒井雅楽頭家(うたのかみけ)と酒井左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の両家の威信や格式が感じられるエリアです。 徳川四天王の酒井忠次は酒井左衛門尉忠次と呼ばれます。 酒井家の祖、酒井広親の長男が継いできた名前です。 酒井雅楽頭家は何かしゃれた名前のように私は感じるのですが、酒井広親の二男の家系で元は酒井雅楽助を名乗っていました。 家康の祖父の清康が是の字を呑む夢を見た経緯から創建した龍海院「 ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:父、松平広忠公の廟所に8歳の竹千代(家康)は松を植えた。その木は東に向かって大きく枝を伸ばした。松應寺。@岡崎市

2023/9/6

松應寺横丁 松應寺の徳川家康の父、松平広忠公の廟所にそのとき8歳の竹千代(家康)は松の木を植えた。 その松は東に向かって枝を伸ばした。 徳川家康公 父君 松平広忠公御廟所(岡崎市指定文化財) この御廟所は、家康公が父君供養のために創った 国内有数の格式と規模を誇る霊廟で、文化財の 指定区域だけでも約四百畳の広さがあります。 広忠公は天文18年(1549年)三月、岡崎城で 暗殺され、亡骸はこの地に埋葬されました。 家康公は当時八歳、人質として尾張にいましたが、 同年十一月に参詣し、墓上に一株の小松を植え、 ...

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Photo 徳川家康 歴史

安城市歴史博物館で開催の特別展「徳川の支柱酒井氏 雅楽頭家と左衛門尉家」を見てきた。織田と松平の10年にも及ぶ安祥合戦(安城合戦)で有名な安祥城址にあります。

2023/8/26

安城市歴史博物館で開催の特別展「徳川の支柱酒井氏 雅楽頭家と左衛門尉家」を見てきました。 織田と松平の10年にも及ぶ安祥合戦(安城合戦)で有名な安祥城址にあります。 余談ですが、本多忠勝のお父さんもお祖父さんもここでの合戦で亡くなっています。 館内は撮影ができないのですが、家康や秀吉からの書状の本物を見ることができました。 左が本丸址、右が二之丸址 徳川幕府の譜代大名としてのその領国には、三河エリアではあまり見られない文書(もんじょ)などを見ることができました。 長篠・設楽原の戦いの大きな布陣図に見入って ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:石川数正の墓所のある本宗寺@岡崎市

2023/8/23

石川数正の墓所のある本宗寺。 石川数正 天文2年(1533年)-文禄2年(1593年)1592?は 家康の片腕として酒井忠次と共に大活躍した武将です。 主君の家康は1543-1616なので石川数正は家康より10歳年上です。 桶狭間の戦い後にそのまま岡崎城に入り駿府には戻らず、それによって駿府に残されてた正室の瀬名(築山殿)と嫡男信康を取り戻した。 永禄5年(1562年織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。 酒井忠次と共に戦った数々の戦での功績も大きい。 また母は、家康の母の於大の姉です。 石 ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史 風景

写真:大久保彦左衛門のお墓参りをした。@岡崎市と港区白金

2023/8/20

大久保彦左衛門の墓 大久保一族墓所 墓の前の景色 大久保彦左衛門のお墓参りをした。 大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)永禄3年-寛永16年(1560-1639)は、江戸時代前期の武士。 徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代に旗本として仕えました。 生粋の三河武士です。 当時からたくさんの逸話のある有名な三河武士です。 世が世であれば、気安く名前をお呼びすることやお目通りすることすらできない身分の高い方です。 そんな大久保彦左衛門のお墓に参ってきました。 彦左衛門の墓のある東京港区白金の立行寺 ...

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Photo 徳川家康 歴史 風景

写真:徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城と隣松寺にある父と祖父の墓。@豊田市

2023/8/18

徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城と隣松寺にある父と祖父の墓。 榊原康政は、徳川家康の家臣で、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑の一人とされる武将です。 1548年にここ三河の国、上野城(豊田市)で生まれ、織田信長や豊臣秀吉との戦いで活躍しました。 主君の徳川家康の関東移封に伴い館林藩(群馬県館林市)の初代藩主となり、慶長19年(1614年)になくなっています。 大阪や、三重、愛知の人は榊原と聞くと、榊原温泉を思い浮かべる人が多いと思います。 まさにその通りで、榊原氏は三重県津市榊原町の出身です。 ...

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Photo 寺社 徳川家康

写真:超一流の剣術によって将軍家や尾張藩の兵法指南役を目指した宮本武蔵。名古屋にその足跡があり笠寺観音には曽孫弟子による顕彰碑が立てられています。

宮本武蔵顕彰碑

超一流の剣術によって将軍家や尾張藩の兵法指南役を目指した宮本武蔵。名古屋にその足跡があり笠寺観音には曽孫弟子による顕彰碑が立てられています。
将軍家の兵法指南役として江戸での就職(仕官)に失敗した宮本武蔵は、こんどは尾張徳川家の兵法指南役を目指して名古屋に滞在しますが、その時も志を果たせませんでした。

深くはわりませんが、全国に名が通っている剣豪なので、藩主御前での試合を披露することはできたのですが、将軍家にも尾張徳川家にも、いずれにも柳生一門が既にその地位(職)にあり宮本武蔵の願いはかなえられませんでした。

そのことが、愛知県立大学文学部教授の石川清之先生の監修のもとに名古屋市南区を紹介する公式ページの中に紹介されています。

その時の宿(宿坊)としていたのが笠寺観音の塔頭の一つである東光院です。その場所は笠寺観音の南門の通りを真っ直ぐ南に200mのところにあります。その東光院には宮本武蔵が自ら削って作ったと伝わっている木刀など、縁のものが残されています。

東光院は木が茂っているあたりになります

宮本武蔵のことを少し調べてみると、大坂の陣には水野勝成の客将として嫡子の水野勝重付きで活躍したそうです。それ以降大名などとのつながりを保ちながら、つまり武芸の需要がなくなってしまった平和な時代にあっても、自分の剣術と兵法の知識が認めれれ取り立ててもらえる少ないチャンスを狙って活動していたのではないかということが伺えます。

剣の道に燦然と輝く実績(歴史)を残した人物、宮本武蔵でさえも、その戦いのための剣術や兵法の必要性が薄れてしまった時代の中で葛藤していたように感じます。

既に数少なくなってしまっていた将軍家や大名家の兵法指南役のポジションは、特に宮本武蔵が目指したと思われる一流で権威のある将軍家やそれに続く家格を持つ大きな藩では、戦国の世を藩主とともに戦い抜いた実力のある家来が占めていて、宮本武蔵という日本一の武芸者と言えども当時の社会の壁を打ち破ることができませんでした。

実務能力一辺倒では中途採用されることは難しく、戦国時代に功があった家柄かどうかも影響しているように思えてなりません。

実務能力一辺倒では中途採用されることは難しく、戦国時代に功があった家柄かどうかも影響しているように思えてなりません。これは想像ですが、社会の潮流やその人が生きた時代も大きな要素ではありますが、宮本武蔵は有力な施政者の家来ではなかったし、TOPとの絆をこれから作り上げなければいけないという立場です。言い過ぎかもしれませんが藩主が腹から話ができるような信用をまだ得られてなかったのでしょう。

宮本武蔵が、これまでにそれなりに職を得ていた福山の水野家は家康のお母さんの家系ですし、姫路の本多家は本多忠勝の家系なので徳川家に対してモノ言える立場の大名です。

しかし宮本武蔵にはさらに上を目指して中央を目指す、つまり本流を目指したいという出世志向があったように感じます。同じ兵法指南の仕事をするなら自分のキャリアと実績にふさわしいのは将軍家以外にはないと・・・。譲歩したとしても尾張徳川家だと考えていたのではないでしょうか。

本人に聞いてみないとわかりませんが、資料等を読み比べているとそういうふうに思えてくるのです。

剣術の世界では右に出る者はいなくても、社会の仕組みと組織の中では剣術や兵法だけで生きていくには困難で、繰り返しいなりますが、既にそのポストは実際に戦ってきた実績をもつ有力者が占めていたし、その事実には抗しようがなかったはずです。軍事的采配の力量を実戦で示し成果を挙げてきた者たちは家康によって既に大名としての地位を与えられていた時代になっていました。

その様に考えてみると、今、就職の面接や試験に臨む人たちや、中途採用に臨む人達とも心の底で通じ合えるものがあるのではないでしょうか。

前出の石川教授によると

この碑は宮本武蔵が尾張を去った後に、尾張藩士・寺尾直正のもとめに応じ、義子である竹村与右衛門を自分の代わりによこしました。竹村は尾張に滞在して円明流(二刀流)を広め、林資源・林資竜親子や彦坂八兵衛といった弟子に免状を与えています。この林資竜の弟子の弟子にあたるのが左右田邦俊なのだそうです。

この碑を見ていると宮本武蔵の葛藤が伝わってくるようです。

※この記事には想像で書いている部分が多く含まれています。

使ったカメラ Nikon D300S  レンズ:DX Nikkor 35mm F1.8 

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