岡崎市にある真福寺には、この仁王門から入り200段以上続く急な石段(男坂)を登ると本堂にまで行くことが出来ます。
現在は車で本堂下の駐車場まで行くことが出来ますが、今日は歩いて登る時に通るこの仁王門のお話です。
真福寺の仁王門には、3mほどもある阿吽の仁王像が配置されています。
真福寺の仁王門には古色蒼然とした大きな阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が配置されていて、素朴で力強い仏師の造形美に思わずじっと見てしまいます。
そして、門をくぐろうとしているのに思わず二度見してしまいます。
阿形、吽形(あぎょう、うんぎょう)いずれの仁王像の彩色も剥落してしまっているのですが、その古色造然としたその姿は、かえってこの像がこれまでの歴史を生き抜いてきた事の証となっています。
そして、よく見ていると、素朴な造形美の中に、この仁王像を彫り、創り上げた仏師が施した美的感覚の世界が感じられるようになります。
たぶんそれが、二度見してしまう理由なのでしょう。
おやっ?と思うタイミングが遅れてしまうと、私は仁王門を抜けて向こうに見える石段に向かってしまうところでした。
この仁王像を創った仏師は宗梅だそうです。
昭和52年発行の「岡崎・史跡と文化財めぐり」(岡崎市厚生経済部観光課発行)には、運慶によるこの地区最大の仁王像と記されています。
しかし真福寺のHPには、
仁王門は応永17年(1410)に焼失後、明応3年(1494)に再興されたものである。
仁王像は永正12年(1515)に建立され、3mを超える巨像である。
と記されているので、この阿吽二体の像は運慶作ではないことがわかります。
三門前の岡崎市教育委員会の説明パネルによると仏師宗梅1515年の作と説明されています。
運慶が亡くなったのは1224年(ウィキペディア)なので、現在の仁王像は運慶によるものではありませんが、もしかすると三門消失以前にあった仁王像は運慶作であったのかもしれません。
ただ、仁王像の大きさに比べて山門が控えめに感じるのは、明治維新後の改革で三門の楼上が解体されことによるものだそうです。
とても残念に思います。
真福寺
建立594年、聖徳太子。 本願施主、物部の守屋の次男「真福(まさち)」
真福寺に残されている古文書によれば、奈良の法隆寺、大阪の四天王寺、長野の善光寺と共に、聖徳太子建立の46ケ寺の一つとして寺名を天下にとどろかせた。とあり、
また、聖徳太子伝歴備講によれば「太秦の広隆寺(京都)、信州の善光寺(長野)、三州の真福寺(三河)、讃州の善通寺(讃岐)等、その本願施主名をもって其の寺号とす」とあり、そのことから、寺の名前を真福寺としたことがわかります。
参考:真福寺HP 「岡崎・史跡と文化財めぐり」(昭和52年岡崎市厚生経済部観光課発行)