大久保彦左衛門屋敷跡の碑を見つけました。
神田駿河台の杏雲堂病院(きょううんどうびょういん)の敷地に見つけました。
歴史に名を残している三河武士なので想像力をかき立てられます。
それは誰のこと?、彦左衛門を知らない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
少し前なら誰でも知っている有名人でした。
簡単に申し上げると、徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって仕えた旗本で三河武士。
有名な三河物語を書いた人物といえば思い出してもらえたでしょうか?。
1560年生まれ1639年没と当時としては長命の武将です。
大久保彦左衛門屋敷跡の碑はなんとなく歩いていると見逃してしまいそうです。
天下のご意見番大久保彦左衛門忠教は講談などにも登場します。
大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)は講談などに登場します。
何かと話題の多い三河武士です。
将軍に意見できる立場の彦左衛門江戸の町民にも人気がありました。
戦乱の地を家康と駆け巡った昔を懐かしむ三河武士達からも人気のあった旗本です。
ちょっとめんどくさい変わり者の旗本のイメージもあります。
しかし。ずっと戦場で育った三河武士です。
平和な時代に生まれ育った若手の武士にとっては、
自分の父親や祖父の活躍をよく知る人物なのです。
親からも教えて貰っていないことでも何でも知っているので、扱いにくかったでしょう。
出身は愛知県岡崎市。領地(知行所)は生まれ故郷のすぐ南の愛知県額田郡幸田町です。
出身は愛知県岡崎市で、領地(知行所)は出身地のすぐ南の愛知県額田郡幸田町です。
そこに陣屋があり、その跡が今も残っています。
また彦左衛門の墓所も近くの愛知県岡崎市竜泉寺町の長福寺です。
家康が生まれた岡崎城のすぐ南、上和田の生まれです。
そこから歩いて1時間とかからない場所に領地(知行所)がありました。
家康や秀忠の配慮ではないのかと思っています。
自分の生まれ育ったところに1000石とはいえ領地を与えられた。
それは三河武士としてとても幸せなことです。
そんな家康の配慮を誇りとしていないはずはありません。
わたしはそう思うのです。
そんな彦左衛門は駿河台のこの地にあった屋敷から江戸城に登城したのでしょう。
城の中では、家康、秀忠、家光の3代にわたる将軍とあれこれと話したはずです。
徳川家の地元岡崎の話しや、出来事について語りあっていたのでしょう。
家康より17歳下といえども、岡崎をよく知る三河者どうしです。
その家康が彦左衛門に与えた知行地によって心象を示したかったのかも知れません。
旗本として江戸にありながらも、幸田坂崎の陣屋の近在には旧知の者がいるはずです。
知行地に戻ったとしても自分の古里ですから、
そこに違和感を覚えることは何もなかったことでしょう。
新三河物語りによると、家康は人に対して情に厚かったそうですから、そういった思いやりや配慮はあったのでしょう。
新三河物語りによると家康は人に対して情に厚くこういうことの出来る男だそうです。
岡崎時代の家康の戦いぶりや、大久保一族の活躍が、
日経新聞に連載されていたことがあります。
それをまとめた新三河物語(宮城谷昌光著)全3巻が出版されています。
小説とは言え膨大な資料を調べて検証した結果の作品だということが、
読んでいてわかります。
史実に沿っているので著者の想像で書いている部分は少なく、
心の動きの描写も見事です。
緻密な資料の検証結果に従って精密に登場人物を物語の中で動かしています。
それに伴う情感の流れにも違和感はありません。
興味のある方には一読をおすすめします。
そして実際に戦いのあった現地に赴いて確かめてみるとそれはもう宝物になります。
岡崎に土地勘が生まれると想像が時代を超ええきます。
現実のことに変換されていくので楽しさを通り越してしまい。
彦左衛門の知行地があった愛知県額田郡幸田町坂崎は今は新幹線が走っています。
東京から名古屋に向かって、豊橋を過ぎ、蒲郡市民病院の建物が右に見えたらトンネルを通過します。
そのトンネルを抜けて平野が広がったらそこが、大久保彦左衛門の知行地のあった幸田町坂崎です。