明治から大正時代にかけての数学者、数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)教授の上宮寺滞在とその時の様子を伝える立て札が境内の百日紅(さるすべり)のそばにあります(俳号は五城)。上宮寺には、その昔、三河一向一揆を主導した無骨な寺のイメージがあるのですが、上宮寺とつながりのあった人の「心」を伝えることにも配慮されていて、歴史と文化にたいする寺としてのフィロソフィーを感じさせてくれます。
数藤教授と同時代に活躍した上宮寺の佐々木月樵(げっしょう)住職は大谷大学学長を務めた高名な方ですが、教育者や仏教学者としての活動のなかで数藤斧三郎という数学者と知り合ったのだろうと想像します。
数藤教授がこの寺に滞在された大正時代の初期には国鉄の東海道線は既に全線開通していたので、教授は東京駅から汽車に乗って岡崎駅までやって来られたはずです。
駅から上宮寺まで夏の日差しの中をトランクを持って歩いたのだろうか?。それとも駅に出迎えの人が差し向けられていて、自分に代わってその人がトランクを携えてくれたのだろうか?。そんなことがどうしようもなく気になって仕方ありません。
季節は夏ですから、出で立ちがもし大正モダンな麻仕立ての洋服に白いハットだったらとても洒落ています。そのようなモダンな姿で岡崎駅に降り立ったら相当に目立ったに違いありません。
肖像画から察すると旅装は洋服だったようなイメージを持ちますが、上宮寺に滞在して数学に関する研究をまとめることを目的に来たわけですから、寺で過ごしやすい和服だった可能性もおおいにあると思います。トランクの中にはきっと和洋の服が詰めてあったはずです。
国鉄岡崎駅から4㎞ほどの道中は矢作川を越えるほかは平坦な田んぼ道なので、人力車に揺られながら幌の陰からぼんやりと三河の景色を眺めていたかも知れません。
時々吹いてくる少し冷たい川風が旅の緊張を解いてくれたに違いありません。ただその頃はまだ現在架かっている「渡橋」は架けられていなかったので、橋のある別の所まで遠回りするか、上和田を通ってそのまま浅瀬を渡ってきたはずです(幹線道路なので木橋が架かっていたかもわかりません)。
私のような者は、人力車を矢作川手前で乗り捨てて瀬を渡ってから寺までの1㎞を徒歩でいくことも考えますが、そこは社会的な身分の高い人なのでそうはせずに、人力車や荷車が浅瀬を渡れるような道が出来ていていれば、そのまま人力車を降りることもなく上宮寺に到着できたのでしょう。
大正時代の昔のことを令和の時代にあれこれ心配しても仕方ありませんが、そんなところがとても気になります。
この立て札を読んでいると、いろいろな人の思いが浮かんだり消えたりします。上宮寺に関係する人達によって寺の歴史が作られていることに気づかされます。三河一向一揆の寺という一面だけを見るだけでは、ちょっともったいお寺です。
大正時代に矢作川には橋が架けられていないようなことを書いてしまいましたが、秀吉の時代には既に橋が架けられていたので浅瀬を渡ってここまで来る必要はありません。
恥ずかしいです。
済みません。