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写真 徳川家康

写真:丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城の分断と監視、そして今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が築きました。

丸根砦内石碑
丸根砦内石碑

丸根砦は1559年(永禄2年)に今川勢力の城である大高城と鳴海城とを分断するために、また今川義元の上洛を阻止する目的で織田信長が北西600mにある鷲津砦とともに築き、守将に佐久間盛重を入れました。

丸根砦と大高城は大高川の流れる谷を挟んで東西800mの距離にあります。また、大高城と連携している北北東の鳴海城とは2㎞の距離にあります。

丸根砦の規模は、海抜35m、東西36m、南北28mで、その周囲に外堀を巡らせており、地形はちょうどお椀を伏せたような丸い形をしていますが、その規模は大きくありません。と言うか小さい。

その砦に400~700人の兵を入れて守っているといわれますが、砦には建物が建っていたようなので500人も入ればギュウギュウだったように思います。

その状態でも人間ですから、食事もすればトイレにも行かなくてはならないので、そのための500人分の施設を作るといっぱいになっていたはずです。幸い砦を出てすぐ隣には砦よりも広く、下の谷の方角からは隠れた位置に神社があり有効に利用していたと考えるのが考えやすいと思います。

とはいえ、戦が始まれば全員砦に籠もって戦うという戦法になります。丸根砦は写真でもご覧いただけるように高い場所にあるので、攻める松平元康(家康)としては攻めにくいので、兵を三手に分けて鉄砲や弓を使った遠戦を仕掛けていたようです。

策もなく勇ましく砦に取り付いて登ろうとしても、上から弓や鉄砲でやられるだけなので、元康(家康)は犠牲者の少なくなる作戦を考えていたようです。

鉄砲は下から撃っても砦内の敵に玉が当たりません。これは想像ですが、弓矢をいっぱい空に向けて放ち、砦内の敵の頭上に矢を落とすことを延々と続けたのでしょう。そうすれば敵は逃げ場を失い、砦の外に打って出て戦うより他に手がなくなってしまいます。

丸根砦の大将、佐久間盛重が500の兵と砦の外に打って出て一丸となって向かってきたところを、信康隊(家康隊)は弓矢に鉄砲も交えて集中的の攻撃し相手がひるんだすきに乗じて砦に侵入し、砦内の施設を焼き払って旗を立てました。制圧を今川義元に示したようです。
気の毒なことに夜明け前から続いた戦いは、朝には守将以下全員が討ち死にしたと記録にあります。
1560年(永禄3年)のことです。

大高城兵糧搬入と丸根砦攻めは信長公記では同年と読める部分もありますが、改正三河後風土記では、兵糧米搬入と同じ5月なのですが1560年と1561年の二年にわたると注意書きがあります。ただ、理屈からすると昨年入れた兵糧が減っているので、今日明日にも今川義元が入城する予定なので今年もまた兵糧入れを行ったのでしょう。

実際にこの目で見ていないのとであまり深掘りや議論はできないので悪しからず!。

撮ってきた写真の中にある鉢巻き状に外周を巡っている道が当時の外堀だったもの思われます。

多勢に無勢で砦全員の玉砕が決まっていたような戦いです。砦からの支援要請にも信長は応えられませんでした。ものすごくつらい気持ちになってしまい無意識に戦没者を思い手を合わせていました。将兵が気の毒すぎます。しかしこの時代はそれが日常だったのでしょう。

使ったカメラ Nikon:D500 レンズ Nikkor DX 16-80mm F2.8-40

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