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写真:この沓掛城に今川義元が入る前日は知立に泊まり、翌朝、知立を発ち北に8㎞の沓掛城に入りました。

この沓掛城に今川義元が入る前日は知立に泊まり、翌朝、知立を発ち北に8㎞の沓掛城に入りました。この城は、愛知県豊明市沓掛町東本郷にあり、すぐ東側には愛知県立豊明高校があります。またすぐ近くには、源頼朝をはじめ、北条泰時、西行などの詠んだ和歌が多く残されている鎌倉街道の名所二村山があり、二村山の西の麓には藤田医科大学があります。

今川義元はこの沓掛城に泊まった翌日は、鎌倉街道ではなく、沓掛城から西に方向を変えて、8㎞先の大高城に向かいました。その途中の桶狭間で織田信長に討たれました。桶狭間は沓掛城から大高城までの距離の中間地点にあります。

仮に討たれずに大高城に入っていれば、翌日は北に8㎞ほどの熱田神宮に入ったのではないかと想像できます。地図で距離を測ってみると今川隊は毎日8㎞前後の距離を進軍していたことがわかります。


ただ、大高城の城下は当時はすぐに海だったはずなので、海から今川義元を支援していた武将もあったことから、船でそのまま20キロほどの海路を行けば、労せずして桑名まで進むことも可能な別のルートも用意していたのではないかと考えています。

また大高城は織田型の丸根砦と鷲頭砦と対峙する最前線なので、予め織田方の砦を掃討しておかないと安心して入城することができない状態なので、今川勢の押し出しも、この辺りが限界ギリギリだったのではないかと考えられます。

その辺りの経緯は、藤井尚夫さんが書かれた、復元イラスト「中世の城と合戦」で述べられていて、双方が陣を構えた戦だったと教えてくれます。遭遇戦でも奇襲戦でもなかったようだと構築物などを示してから教えてくれます。

沓掛城歴史石碑

今川義元はは桶狭間で討ち取られたので、この先の物語はありませんが、もし、織田方の桶狭間での襲撃をはね除けて、そのまま熱田まで進軍しておれば、その翌日には信長の居城がある清洲に今川勢が入り、織田、今川の両者にとって、生きるか死ぬかの激戦となったことは明らかです。途中の笠寺城や名護野城もありましたが、織田の勢力2千500では今川勢2万5千の大軍にはひとたまりもなかったでしょう。

使ったカメラ Nikon:D100 レンズ Nikkor:35-70mm F3.3-4.5 

*私は歴史の専門家ではありませんが、自分の興味の範囲で書籍での調べやネットでの検索、現地に行って地形や方角を見て思ったことを書いています。

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