
徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の父忠高と祖父の忠豊は約10年にわたり繰り返された安城城の争奪戦でそれぞれ討ち死にしています。その場所には立派な墓碑が建てられています。その墓碑の写真を語る前に簡単に安城城を巡る戦いに触れておきたいと思います。
織田と松平は安城城(安祥城)を巡って1540年から約10年間この城の争奪戦を繰り返しました。
織田と松平は安城城(安祥城)を巡って1540年から約10年間この城の争奪戦を繰り返しました。ちなみに関ヶ原の戦いは1600年なのでこの戦いの約50年前のことになります。
ざっくりと申し上げると、織田信長のお父さんと徳川家康のお父さんお祖父さんの時代の戦いになります。最終的には松平が今川のバックアップで織田に勝利していますが、その戦いの歴史的背景や事情は複雑で、本やネットで資料を見ると、やがて迎える戦国時代の縮図のようにも思えてきます。そしてまた、歴史は人が動いて初めて生まれるのだという事も教えてくれます。





松平の家臣であった本多平八郎忠勝の父忠高(1549年没)と祖父忠豊(1545年没)も安城城の争奪戦(安城合戦)に臨み奮戦しています。しかし、気の毒にも二人ともこの地で討ち死にしてしまいます。その場所にはそれぞれ立派な墓碑が建てられており、銘文にはその武勇と討ち死にした時の様子が記されています。わかりやすく解説されている看板が立てたれているのが親切です。墓碑の入り口にあるように、本多家の家紋は立葵(たちあおい)の紋です。
最初の墓碑の写真は本多忠豊、次の墓碑は大乗寺にある本多忠高の墓碑です。岡崎藩主本多忠顕(ほんだただあき)によって1797年に建てられています。碑銘の部分は篆書体(てんしょたい)で美しく立派です。亀の上に墓碑が乗せられていますが、徳川家に特別な功のあった者にしか認められない様式だそうです。

北東東にある岡崎城から安城城までは約6㎞の距離があります。この辺りは矢作川の後背湿地で沼や湿地で足元が悪く自然の要害でした。ここで戦う武士にとっては足元が悪く不自由極まりない戦を強いられていたと思います。
松平はこの安城城を落とした後、多難な時代をくぐり抜けてその地位を築いていきますが、安城城の戦い後の次世代の二人家康と信長は、父の時代とは打って変わって力わ合わせて戦国時代をともに戦い続けます。そしてついに家康は天下統一を成し遂げています。
その間、徳川の四天王のひとりである本多平八郎忠勝はずっと家康を支え続けます。


現在、安城城本丸跡には安祥山大乗寺があり、その隣には安城市歴史博物館が建っています。
徳川家康にかかわる歴史巡りを始めたい方は、ここをスタート地点とするのがお勧めです。頭が整理されるのと、後で起こる歴史的な事柄への理解が進み面白くなり楽しめます。
安祥山大乗寺:愛知県安城市安城町赤塚一番地
安城市歴史博物館:https://ansyobunka.jp/