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悲運の最期を遂げた源頼朝の父、義朝公の墓所のある大御堂寺野間大坊 @愛知県南知多郡

悲運の最期を遂げた源頼朝(鎌倉殿)の父、義朝公の墓所がある大御堂寺野間大坊は愛知県の南知多郡にあります。

知多半島を足に例えるとちょうどかかとのあたりになります。

正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)と言います。

お寺の歴史は古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立されました。

その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。

そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。

のちに源義朝(源頼朝の父)がこの地で謀殺され、それを供養するために源頼朝の念持仏を寄進し、塔や金堂(こんどう)講堂など諸設備が調った七堂伽藍を造営しました。

また豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で繁栄してきました。

本尊様が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として信仰を集めています。

野間大坊のHPはこのように説明しています。

源義朝が平清盛に敗れる平治の乱について書かれている平治物語によると、義朝の家人である長田忠致(ただむね)・影致(かげむね)父子は、都から逃れて野間の地に来た源義朝をかくまうと見せて謀殺を企みます。そのために、義朝の側近で実の娘婿でもある鎌田政家を先に殺し、次に義朝をだまし討ちして謀殺します。そして二人の首を平清盛に差し出したのでした。

その恩賞として美濃と尾張の国を欲しがった長田忠致・影致父子への平清盛の心情などが平治物語に詳しいので、興味のある方は一読されることをお勧めします。

源義朝公は

源義朝

38歳の時にこの地を治める家人の長田忠致・影致の屋敷に平治の乱の敗戦を逃れての滞在中に討たれてしまいます。

1123年生まれ 没年1160年 38歳

源頼朝公は

頼朝公木像
伝源頼朝坐像

1147年生まれ 1160年14歳で伊豆の国へ流される 没年1199年 53歳

長田忠致・影致父子は義朝をだまし討ったにもかかわらず、子の頼朝に従いましたが、1190年に頼朝が上洛する折に、ここ野間の地で処刑されたと伝わっています。

父義朝が長田忠致・影致にだまし討ちにされてから30年後の事になります。

大御堂寺野間大坊HP https://nomadaibou.jp/

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