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写真:根本中堂の葵紋が輝いています。現在の寛永寺の根本中堂は明治になってその威容をつつましく変えても、屋根には葵紋眩しく輝いています。@台東区

根本中堂の葵紋が輝いています。

現在の寛永寺の根本中堂は明治になってこれまでの威容をつつましくしました。

それでも今も屋根には葵紋が眩しく輝いています。

上野寛永寺は天海大僧正により江戸城の鬼門に建てられたお寺です。

現在の上野寛永寺の根本中堂は江戸の歴史に残したその威容をつつましくしています。

それでも根本中堂の屋根には葵紋が輝いています。

寛永寺は天台宗の別格大本山です。

徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するために江戸城の鬼門に建立されました。

もともと上野は津藩の藩主藤堂高虎の屋敷がありました。

高虎はその屋敷を提供し天海と共に家康の遺言を守りました。

家康と天海そして高虎の3人が心静かに過ごすことのできる寺を上野に建てたのです。

高虎が家康が亡くなる間際の枕元で、家康と同じ天台宗に改宗したことは有名です。

また、天海が高虎に「冷たい風に向かって立つ松のような人物」。

との思いから寒松院の院号を贈っています。

寛永寺は後に第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営されます。

そして将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。

根本中堂の屋根に葵紋が輝いているのはそのためでです。

輝いている根本中堂の葵紋が見下ろしている以前の鬼瓦

旧本坊・根本中堂 鬼瓦

この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。

旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。

この門は、昭和12年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復されました。

このときの調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(とりぶすま・鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現在の鬼瓦には鳥衾を取付けた痕跡がなかったことが分かっています。

東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折りに西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。

この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。

◆旧本坊表門鬼瓦「阿」形 高さ113cm×横幅118㎝

◆寛永寺根本中堂鬼瓦  高さ248㎝×横幅325㎝

寛永寺 教化部

東叡山 寛永寺 公式ホームページ

また東叡山主を皇室から迎えました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました

東叡山主を皇室から輪王寺宮を迎えました。

江戸時代にはその格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。

しかし幕末の上野戦争により、寛永寺が焼かれ敷地の大部分が上野公園となりました。

尾形乾山(おがたけんざん)墓碑・乾山深省蹟(けんざんしんせいせき)

台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺

尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。

寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。

画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711-1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に入り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。

寛保3年(1743)81才で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。

しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。

抱一は江戸の琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。

墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。

当寛永寺境内の2つの碑は、昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。

その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると、現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寬法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。

なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。

平成11年3月

台東区教育委員会

鶯谷の地名のいわれ

輪王寺宮公弁法親王(りんのうじのみやこうべんほっしんのう・1669-1716)が寛永寺住職であった時の事です。

上野の森の鶯の鳴き始めが遅く声も美しくないことを悲しみました。

あるとき輪王寺の宮は尾形乾山に命じました。

京都から美声で“はや鳴き”の鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥しました。

このため根岸の鶯は美しい声で鳴くようになりました。

江戸府内でも最初に鳴き出す“初音の里”として名所になりました。鶯谷の地名はこれに由来しているとされています。

根本中堂の葵紋が輝いている開かれた寺、寛永寺

関東大震災や太平洋戦争の被害もありました。

しかし、戦後は新たに霊園を造営し一般の檀家を受け入れました。

現在では開かれた寺となっています。

葵紋が輝く江戸時代の寛永寺根本中堂は国立東京博物館前のこの辺りにありました。

江戸時代には寛永寺の根本中堂は、現在の東京国立博物館前にありました。

大きな噴水の池あたりです。

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