写真 風景

写真:2024年、知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした。@刈谷市

2024/4/27

知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした、 昨年は5月の初めに花が咲き始めました。 先日、知立神社のかきつばたが雨の中でツツジと一緒に美しく咲いていたので、今年は開花が早いのかと思って近くの天然記念物小堤西池に自生するかきつばたの様子を見に行きました。 結果はご覧のとおり花はまだまだでした。 とは言っても。そろそろ開花の時期を迎えます。 https://okazin86.com/chiryu

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写真 寺社仏閣 歴史

写真:尾張国二宮 大縣神社は濃尾平野を開拓者した古代の人たちの守り神。@犬山市

2024/4/26

尾張国二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)は濃尾平野を開拓した古代の人たちの守り神です。 犬山市にあります。 国宝の犬山城から南南東7㎞にある本宮山の麓にある神社です。 元は本宮山、(真霊山(みかみやま)ともいう)の山頂に祀られていた神様ですが、大縣神社の由緒書によると垂仁天皇27年(BC3年)に麓の現在地に遷座されたそうです。 祭神は尾張国開拓の祖神、大縣大神です。 尾張国一宮の真清田神社の祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)も国土開拓、産業開発の神様なので、濃尾平野の開拓と開発のために尽力された神 ...

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写真:尾張国一宮 真清田神社@一宮市

2024/4/22

尾張国一宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)は愛知県一宮市にある歴史ある神社です。 参道はアーケードのある大きな商店街になっていて、市役所も門前に立地しています。 御由緒 神社名 真清田神社(ますみだじんじゃ) 祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと) 鎮座地 愛知県一宮市真清田1ノ1 祭礼日 四月三日(桃花祭) 当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊瓊杵尊の御兄神に坐しまし国土開発、産業守護の神として 御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばれた貴い神様であります。 創建につい ...

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写真 寺社仏閣 歴史 風景

写真:知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。@知立市

2024/4/22

知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。 花菖蒲園(西公園)はまだ咲いていません。 強く降る雨のかなで、ツツジとかきつばたが薄暗い神社の森を背景にして光るように咲いています。 ツツジもかきつばたも例年に比べると咲くのが早いのですが、特にかきつばたがツツジと同じタイミングで咲いているのは、季節がこれまでとは大きく変化してきているのでしょう。 強い雨のせいで知立神社の社号標を撮り忘れました。

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写真:谷汲山華厳寺の仁王像と門前町の桜祭り@岐阜県揖斐川郡

2024/4/15

西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)は、その山号と寺号は醍醐天皇より賜ったと伝えられています。 お寺の場所は、根尾川が山から濃尾平野に流れでる手前の西に位置しています。 その根尾川は濃尾平野にでて木曽三川(きそさんせん)のひとつ揖斐川(いびがわ)に合流します。木曽三川とは長良川、木曽川、揖斐川のことをこのように呼びます。 谷汲山華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られています。 春には桜、秋には紅葉の名所として多くの参拝者を集めま ...

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写真:壬申の乱で大海人皇子に破れた大友皇子の墓と伝わる古墳があります。@岡崎市

2024/4/10

壬申の乱(じんしんのらん・672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ)に破れた大友皇子(おおとものおうじ)の墓と伝わる古墳が岡崎市にあります。 壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の弟、大海人皇子と天智天皇の息子、大友皇子との戦いのことです。 近年では、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)が夫である大海人皇子(後の天智堪能)の皇位継承のために、近江を去り吉野でいの準備を行い、兄である天智天皇が亡くなった後に、兄の息子の大友皇子を討つことを説得したのではという説も有力になっているよ ...

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写真 歴史 風景

写真:満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市

2024/4/10

満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市 1500年前に迫害を避けてこの地(岐阜県本巣市根尾)に潜んでいた男大迹王(おほどのおおきみ)が継体天皇として即位するためにこの地を去るにあたり形見として植えられた桜です。 「身の代と残す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛(さか)へ止(とど)むる」。 歌まで添えられています。 継体天皇(男大迹王)は福井で育てられ、迫害を避けてこの地に隠れていました。 そういった歴史上の出来事を知る、やんごとなき桜の木です。 【PR】初心者も安心のサポート充実【DMM FX】 国指定天然記念物 根尾 ...

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写真:東山植物園桜の廻廊満開@名古屋市

2024/4/10

東山植物園の桜の廻廊の桜が満開です。

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写真:持統天皇のお手植えと伝わる奥山田のしだれ桜が放つオーラに負けそうです。@岡崎市

2024/4/14

持統天皇のお手植えと伝わる奥山田のしだれ桜が放つオーラに負けそうです。 奥山田のしだれ桜は、豊田市と岡崎市の境近くにあるしだれ桜の名木です。 1300年前に持統天皇(645-703)が上皇となられ、村積山(むらづみやま)に行幸されたときにお手植えになったと伝わる美しいしだれ桜の巨木です。 西暦702年のことです。 【PR】DMM.com証券のFX取引サービス【DMM FX】 その村積山の頂きには村積神社があります。 物部真福(もののべのまさち)が聖徳太子に願いこの地に真福寺を建立(推古天皇2年(594年) ...

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写真:雨続きだったので貴重な青空。彼岸桜が一気に満開。まさに花開く!。

2024/3/29

雨続きだったから貴重な青空、彼岸桜が一気に満開。うれしそうです。まさに花開く!。 なんとまあ、誇らしげな咲きっぷりでしょう! https://okazin86.com/amenohigansakura/ 【PR】【DMM FX】について詳しくはこちら  

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写真 寺社仏閣 徳川家康 歴史

写真:現在の上野寛永寺の根本中堂は江戸の歴史に残したその威容をつつましくしても、屋根に葵の紋が眩しく輝いています。@台東区

現在の上野寛永寺の根本中堂は江戸の歴史に残したその威容をつつましくしても、屋根に葵の紋が眩しく輝いています

寛永寺は天台宗の別格大本山です。

寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。

上野には津藩の藩主藤堂高虎の屋敷がありました。

高虎はその屋敷を提供し天海と共に家康の遺言通り、家康と天海そして高虎の3人が心静かに過ごすことのできる寺を上野に建てました。

高虎が家康が亡くなる間際の枕元で、家康と同じ天台宗に改宗したことは有名です。

そのときに天海が高虎に「冷たい風に向かって立つ松のような人物」との思いから寒松院の院号を送ります。

寛永寺は後に第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。

旧本坊・根本中堂 鬼瓦

この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。

旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。

この門は、昭和12年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復されました。

このときの調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(とりぶすま・鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現在の鬼瓦には鳥衾を取付けた痕跡がなかったことが分かっています。

東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折りに西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。

この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。

◆旧本坊表門鬼瓦「阿」形 高さ113cm×横幅118㎝

◆寛永寺根本中堂鬼瓦  高さ248㎝×横幅325㎝

寛永寺 教化部

東叡山 寛永寺 公式ホームページ (kaneiji.jp)

また東叡山主を皇室から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました

東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。

しかし幕末の上野戦争により、寛永寺が焼かれ敷地の大部分が上野公園となりました。

尾形乾山(おがたけんざん)墓碑・乾山深省蹟(けんざんしんせいせき)

台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺

尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。

寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。

画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711-1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に入り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。

寛保3年(1743)81才で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。

しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。

抱一は江戸の琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。

墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。

当寛永寺境内の2つの碑は、昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。

その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると、現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寬法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。

なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。

平成11年3月

台東区教育委員会

鶯谷の地名のいわれ

輪王寺宮公弁法親王(りんのうじのみやこうべんほっしんのう・1669-1716)が寛永寺住職(貫首)であった時、上野の森の鶯の鳴き始めが遅く声も美しくないことを悲しみ、尾形乾山に命じて京都から美声で“はや鳴き”の鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥しました。

このため根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す“初音の里”として名所になりました。鶯谷の地名はこれに由来しているとされています。

開かれた寺、寛永寺

関東大震災や太平洋戦争の被害もありました。

しかし、戦後は新たに霊園を造営し一般の檀家を受け入れるなどし、開かれた寺となっています。

江戸時代の寛永寺根本中堂は国立東京博物館前のこの辺りにありました。

江戸時代には寛永寺の中心となる伽藍の根本中堂は、現在の東京国立博物館前にある大きな噴水の池あたりにありました。

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