信玄の3万5千の兵に包囲されながらも井戸の水を断たれるまで籠城。
開城するまでのひと月をわずか400の兵で持ちこたえた野田城主菅沼定盈(すがぬまさだみつ)。
信玄はここで鉄砲に撃たれてしばらくして死んだと伝えられています。
包囲軍3万5千人、籠城軍400人という合戦の人数ついては資料によって異なりますがだいたいこのくらいの人数であると伝わっています。
1573年1月から2月にかけての出来事でした。
野田城跡に来てもここでの戦いがどのようなものであったのかは、イメージが湧きません。
元は城の中にこんなに木が茂っていることはないはずだし。
どうやって城を守ればよいのか見当も立ちません。
野田城跡への入口に立てられているパネルの説明書きを読んで想像するほかに手立てはなさそうです。

野田の戦の説明板の内容
野田の戦
元亀4年(1573)1月、上洛を狙う武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。
菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
野田城は小城ではあるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。
そこで信玄は、甲州の金掘人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。
新城市教育委員会
うまくイメージが沸かないときでも手がかりになるのは、映画や小説などの物語です。
作者や監督が自分に代わって会話のやりとりや動きのイメージを提供してくれます。
そんな予備知識でも持っているとタイムマシンにでも乗り込んだように、その時代の出来事の中に入り込むことが出来ます。
私は、城内から聞こえてくる笛の音に誘われた信玄公がここで鉄砲で撃たれたのだろうと想像しています。

物語や映画は想像で表現されているとはいえ何らかの史実を元にして構成されたお話しです。
小説や映画は作り話だからと捨て置くにはもったいと思います。大いに参考にできます。
三河物語の野田城の記述は武田方の視点から書かれています。
爰(ここ)に藪の内に小城有ける。何城ぞととわせ給へば、野田之城成りと申。
信玄は聞及たる野田は是にて有りか、その儀ならば通りかけに踏みちらせと仰(おおせ)あって押寄給へば、
打立てあたりへもよせ不付(つけず)。
三河物語
三河物語の著者の大久保彦左衛門は当時はまだ戦にでていません。
後の時代に元武田方の武士から野田城抱囲戦の話を聞いたのだろうと思います。
菅沼定盈本人や家臣からも聞けば良いと思うのですが、彦左衛門は野田の城を”藪の中の小城”などと表現しています。
そんな表現の仕方を見ると、菅沼定盈のことがあまり好きではなかったのかもしれません。
ちなみに、野田の戦は1573年なので、1560年生まれの大久保彦左衛門は当時13歳です。
初陣は1576年といわれています。
写真ギャラリー
参考
- 三河後風土記 成島司直(なるしまもとなお)
- 三河物語 大久保彦左衛門
- 風は山河より1-6巻 宮城谷昌光
- 影武者 黒澤明