愛知県安城市野寺町にある本證寺は鎌倉時代後期の13世紀末ころに開かれたと境内の説明にあります。そのお寺が歴史的に有名になったのは三河の一向一揆の拠点となったことによります。
だだ、それ以降江戸時代から明治まで将軍拝謁や尾張藩主拝謁などを行っていることから、一揆の罪が赦免された1580年頃から以降も寺格の高い寺であったことは間違いありません。
江戸時代には浄土真宗の中本山として200の末寺のとりまとめを担っていたと略史の中にあります。
お寺の規模は、東西320m、南北310mで、外堀と内堀、それに加えて土塁も備えていました。そして寺のそういった構えから城郭寺院と呼ばれています。また寺の北東の角には鼓楼があり平時は時を知らせる太鼓が鳴らされてましたが、有事の際には物見櫓として使えることは誰の目にも明らかです。
本證寺は東向きに建てられていて、東側が寺の正面になり門があります。その門のさらに先には矢作川が流れていて、ちょうど矢作川の後背湿地に立地してることになるのですが、お寺がある野寺辺りから西にかけては、わずかに土地が盛り上るので寺や民家は少し高い場所に位置するのだろうと思います。
この日は気温が35度位だったのですが、寺の西側の掘りに咲く蓮の花を見に行くと、涼しい西風が吹いていてホットひと息つける心地よさがありました。ちょうど矢作川が東西に流れているので、川筋をさかのぼって吹いている風が川を流れる水で冷やされることで、冷たくて心地よい風が生まれるのでしょう。
1563年の三河一向一揆では上宮寺 勝鬘寺とともに領主の徳川家康と争い一旦和議を結びますが、寺に突きつけられた改宗命令を拒否したことから、本證寺の坊主衆は領国追放となり建物も破却されてしまったそうです。一揆の罪が赦免されたのはそれから約20年後のことです。
一向一揆が起こったときの家康は若干21歳で、今川義元が桶狭間の戦いで敗れたことで、大高城から自分の城である岡崎城に戻ってから2年しか経っていませんでした。そんな状況の中で一揆側にいる多くの自分の家来達を敵として戦わなければならないという事態に直面した家康は、このときに門徒の力を肝に銘じることになります。
本證寺は三河一向一揆で一躍知られる存在になりましたが、寺が赦免されてから以降は、明治時代まで、領主や寺社奉行と配下の寺院をつなぐ三河の触頭(ふれがしら)としてハブの役割を果たし地域に貢献しています。
岡崎城はここから北東に9㎞のところにあります。
本證寺FaceBook https://www.facebook.com/honsyoji1206/