井原西鶴が一昼夜で23.500句詠んだ場所がここ住吉大社です。
彼はそこで矢数俳諧(やかずはいかい)を催し、超人的な記録を打立てました。
一昼夜で詠む俳句の数を競う矢数俳諧を西鶴が催して、そのときに打立てた記録です。
それは、1684年、今から 340年ほど前の6月5日、42歳の時のことで、
「住吉大社」前で大勢の観客を集めて興行されました。
武芸者が24時間連続で矢を放ち的に当てた矢数を競うのを真似て矢数俳諧と呼ばれた。
武芸者が24時間連続で矢を放ち的に当てた矢数を競う大矢数(おおやかず)は
一昼夜かけて武芸者が弓矢を的に何本射当てることができるかを競いますが、
一方の俳諧矢数は井原西鶴が俳諧を大矢数に習って一昼夜かけて詠んだ俳句の数を競い、
その腕前を競い合うわけで、俳諧の世界では「俳諧大矢数」と呼ばれました。
住吉大社で23,500句を詠んだ井原西鶴と松尾芭蕉は同時代に生きたライバルだった。
住吉大社で23,500句を詠んだ西鶴と芭蕉は同時代に生まれました。
二人は同時代に生まれ俳諧師としてのライバルでした。
井原西鶴(1642-1693)
松尾芭蕉(1644-1694)
井原西鶴が住吉大社の門前で23,500句の俳句を詠んだ「俳諧大矢数」の興行のときには、
彼のライバルだった松尾芭蕉の一番弟子の其角(きかく) (当時22歳)を招いています。
芭蕉の弟子で西鶴とも交流のあった宝井其角の『五元集』にはこの俳諧大矢数のときの句が収められています。
西鶴は、この俳諧大矢数を行って以降は、俳諧から離れて作家の道に進んでいきます。
私の想像では、西鶴が俳句から作家に転じる事を決意した別れの俳諧大矢数だったのでしょう。
俳句では自分表現したいことが収まりきらない。
そんな不自由さを感じていたのではないかと思います。
一方で、ライバルの松尾芭蕉は俳句を芸術の域にまで高めました。
それをわかりやすく例えると、瞬間を切取る俳句と、文字数に制約のない文学。
二人はそれぞれが好みの分野に進んでいったのでしょう。
西鶴が俳句の世界から離れる分岐点になった出来事でした。
その矢数俳諧の催しは、住吉大社の門前で行われました。
人を集める広場のある門前となると、それはきっと太鼓橋の手前あたりです。
当時住吉大社は、和歌などの歌の神様、聖地としても有名でした。
当時住吉大社は和歌などの歌の神様、聖地としても有名でした。
平安時代から貴族の人達が住吉神社に参詣して歌を詠みます。
住吉大社にはそんな歴史があり、和歌の神様とも呼ばれていました。
また、源氏物語の澪標(みおつくし)の舞台にもなっています。
この時すでに西鶴は、読み物の好色一代男を世に出していました。
彼は、俳諧大矢数を催す場所として住吉大社を選びました。
和歌や物語に関係の深い住吉大社を俳諧大矢数に相応しい場として選んだのでしょう。
文芸評論家の小田切秀雄さんは好色一代男の解説をされています。
その中で、好色一代男は源氏物語のパロディーという解説をされています。
そう考えると、井原西鶴は多分に源氏物語を意識していたといえるように思えます。
西鶴は、住吉大社の門前で矢数俳諧を行って以降は文芸の道に邁進しました。
住吉大社HP https://www.sumiyoshitaisha.net