Photo 寺社 歴史

写真:大坂夏の陣に散った豊臣秀頼の重臣、木村長門守重成ゆかりの血染めのすすき@彦根市

2023/12/5

大坂夏の陣に散った豊臣秀頼の重臣木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)ゆかりの血染めのすすきが、彦根市の井伊神社本殿脇に植えられています。 説明板にはこう書いてあります。 慶長2年(1615)大坂夏の陣に、徳川軍先鋒を命ぜられた井伊直孝は、二代藩主直勝に代わって5月6日払暁大阪城を遙かに望む玉串川(現大和川)の若江堤に陣を進めた。 早朝からの合戦に多くの兵を失った豊臣方の名将、木村長門守重成(槍の名手)は、若干24歳の若武者であったが、大阪城もこれまでと、直孝の本陣に最後の突撃を敢行した。 この時、 ...

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Photo 徳川家康 歴史 風景

写真:小説家の今東光(こんとうこう)さんは大阪城の石垣を見て男の城と書いた。

2023/12/4

井上博道さんの写真をまねて撮った写真 小説家の今東光さん(1898-1977)はその本のなかで、大阪城の石垣を見て男の城と書いています。 それは、ご自身の小説の中ではありません。 産経新聞社が出版した「美の脇役」の中でそうお書きになっています。 その「美の脇役」は産経新聞社時代の司馬遼太郎さんと、同じく産経新聞社時代の写真家、井上博道さんによって構成されています。 そして歴史や仏像ヘの造詣が深い二人が美の脇役として吟味し撮影した写真を、選ばれた著名な案内役の方々の解説によって楽しめるという構成になっていま ...

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Photo 徳川家康 歴史

写真:現代に言葉として伝わる大坂の陣での出来事、外堀を埋める!。難攻不落の大阪城外堀の美しい石垣の眺めと紅葉。

2023/12/3

大阪城南外堀東方向 大阪城西外堀越しに見える天守閣 大阪城南外堀西方向 城内から見た大阪城南外堀 400年以上前の大坂の陣での出来事、「外堀を埋める!」。 難攻不落の名城「大阪城」外堀の美しい石垣の眺めと紅葉が晩秋を彩っていました。 外堀を埋める 現代にまでその言葉が伝わり、日常よく交渉ごとなどで使われている大坂の陣での象徴的な出来事をルーツとしている「外堀を埋める」!。 大坂の陣の当時とは堀や城の位置、形は違っているとは言え、実際にこの場に来てみると、外堀を越えて城内に攻め入るのは無理です。 そこに立っ ...

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苗木城(苗木藩遠山氏居城)には織田、豊臣、徳川のそれぞれの時代に翻弄されてきた歴史がある。@中津川市

2023/11/27

遠山氏は鎌倉時代に木曽川の南北エリアに勢力を持ち、遠山氏の本拠地だった岩村城がある恵那市岩村町からここ中津川市の苗木城、そしてここから車で岩村町を通り越して南西に1時間ほどの恵那市明智町辺りまで広いエリアに勢力があったようです。 その拠点は美しい石垣で有名な岩村城のある恵那の岩村(恵那市岩村町)でした。 そして関ヶ原の戦い以降、岩村は岩村藩となり大給(おぎゅう)松平家が入った。 明智は旗本明智遠山氏6,500石の領地となり明治まで陣屋が置かれていました。 そして苗木の遠山氏は苗木城を居城とする10,500 ...

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Photo 動物

写真:動物たちの表情シリーズ1@東山動物園

2023/11/25

東山動物園のタイル壁画伊藤若冲の鳥獣花木図屛風を思い出しますhttps://artflow-jp.com/jakuchu-chojukabokuzu/ 動物たちの表情シリーズです。 名古屋市の東山動物園は大人気(昔からですが)、入園者でいっぱいです。 動物園は子供たちだけの場所ではありません。 心が疲れてしまったときに、考えを巡らせたり心を解(ほど)いて癒やされる静的な場所がお寺や神社です。 一方、動的(ダイナミック)に癒やされて心もいっしょに躍動し始めるパワースポットが動物園です。 試しに1人で行って感 ...

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Photo 動物

写真:神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。@東山動物園

2023/11/22

神戸の王子動物園から黒いジャガーのマヤ(メス2才)がやってきました。 10月にやってきたのですが、できて間もない新築のジャガー舎に入っています。 まだ慣れないせいか奥の暗い部屋の中を行ったり来たりしています。 人がいないときには外に出てくるようです。 暗いうえに動き回るのでうまく写りません。 マヤと言う名前は六甲山から西に尾根続きの摩耶山にちなんで名付けられたのでしょうね。 王子動物園は摩耶山の麓にあるし。 マヤは繁殖を目指して神戸から名古屋までやって来ました。 早くジャガーの子供が見たいです。 王子動物 ...

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写真:秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)の墓所がある太融寺@大阪市北区

2023/11/23

太融寺(たいゆうじ)には秀吉の側室で豊臣秀頼の母、淀殿(茶々)(1569-1615)の墓があります。 淀殿の墓は明治時代のはじめまでは、大阪城のすぐ北にある城東区鴫野(しぎの)というところにありましたが、明治10年11月、そこに城東練兵場が造成されるにあたり太融寺に移祀されました。(太融寺碑文) 淀殿の墓所を太融寺とした理由は、大坂の陣に於いて寺が豊臣方に味方した経緯があって、またその縁が深いことに拠るものです。 淀殿が1615年の大坂夏の陣で亡くなってから1877年(明治10年)までに262年もの年月が ...

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写真:柚の木のトゲはイバラそのもの。こんなイバラの道など歩けるわけがない。そう思った。@東山植物園

2023/11/24

柚(ゆず)の木のトゲはイバラそのもの。 見ただけでも目に刺さりそうで痛くなります。 世間では、イバラの道など平気な顔をしてよく言われますが、歩けるわけがない。 軽い気持ちでそれを言う人をこのイバラの中に頭を突っ込んで差し上げたい。 そう思います。 東山植物園では秋になると日当たりのよい場所に植えてある柑橘類が実をつけます。 柚(ゆず) 温州(うんしゅう)みかん、柚、ダイダイなどがあります。 私は柚に惹かれます。 理由はトゲの痛そうなところとその香りです。 ダイダイ 温州(うんしゅう)みかん 東山植物園 h ...

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写真:JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色の稲穂がコラボ。@日進市

2023/10/31

JAあいち尾東中部ライスセンターに描かれたイラストと黄金色に実った稲穂がコラボ。 きっとこの写真のような景色に溶け込むことをイメージして描かれたのでしょう。 実りの秋の2週間ほどが鑑賞のタイミングです。 お城のイラストは小牧長久手の戦いで家康の本拠地、岡崎を目指す秀吉軍を阻止するために全員が討死した城代の丹羽氏重以下200名が詰めていた岩崎城です。 黄金色の田んぼの中に立っている鉄塔を見上げて気分転換です。 岩崎城 http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/tatakai.ht ...

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Photo 寺社 徳川家康 歴史

写真:佐和山山麓の龍潭寺入口に座る石田三成像 @彦根市龍潭寺

2023/11/23

佐和山城山麓の龍潭寺(りょうたんじ)入口にある石田三成像は頭脳明晰な実務家を彷彿とさせる表情で京都大阪の方角?を向いて座っています。 石田三成の居城、佐和山城へは上の写真に見える入口から入り、龍潭寺の堂々とした山門をくぐります。 そこからまっすぐの所にある観音堂を右に折れて、城があった佐和山の頂上まで登ります。 三成の時代には龍潭寺はまだありません。 この辺りの佐和山の山麓に三成の屋敷を含め、秀吉から与えられた20万石ほどもあるこの地を治めるための機能が集まっていたと想像できます。 龍潭寺の山門の柱には、 ...

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写真:徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城と隣松寺にある父と祖父の墓。@豊田市

徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城と隣松寺にある父と祖父の墓。

榊原康政は、徳川家康の家臣で、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑の一人とされる武将です。

1548年にここ三河の国、上野城(豊田市)で生まれ、織田信長や豊臣秀吉との戦いで活躍しました。

主君の徳川家康の関東移封に伴い館林藩(群馬県館林市)の初代藩主となり、慶長19年(1614年)になくなっています。

大阪や、三重、愛知の人は榊原と聞くと、榊原温泉を思い浮かべる人が多いと思います。

まさにその通りで、榊原氏は三重県津市榊原町の出身です。

上野城址(上野上村城址)

応仁の頃(1467)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光による築城と伝えられている。城の周囲には、自然地形を利用した堀が巡り、南西に本丸、北東に二之丸が配されている。

宗光は文明7年(1475)に二男の家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となった。その後家光も程なくして田原に移っている。

明応2年(1493)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母(ころも)の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏等と連合して松平親忠と井田野(岡崎市)に戦い、破れて、松平氏に服属した。その後この城には松平内膳正信定と、その子清定が在城した。

清定は天文14年(1545)松平広忠と戦い、同15年に降伏して桜井(安城市)に蟄居の身となり、代わって、酒井将監忠尚が入城する。

しかし、永禄6年(1563)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に味方したため、隣松寺に本陣を敷いた徳川家康によって攻められることになる。

永禄8年、一揆が鎮まって忠尚は駿河に逃れ、上野城は落城した。

落城後は家康により、上野七人衆と呼ばれる在番衆が置かれた。

豊田市教育委員会

説明板にもありように榊原康政が生まれた上野城は、当時、三河一向一揆の時に家康に敵対した酒井将監忠尚の城でした。

榊原康政はどういった経緯で家康の家臣になったのかと考えてしまうのですが詳細はよくわかりません。

ただ、その頃家康は、自分の家臣団を作るために有能な若い者を推挙してもらいたいと、地元三河の有力者に声を掛けていたようです。

それに応じた酒井将監忠尚が榊原康政を推薦したと考えられます。

史実がどうなのかはわかりませんが、酒井忠尚と家康はもともと交流があったわけですから、きっとそのようなことがあったのでしょう。

これは小説ですが、「徳川四天王 川村真一著」の中に酒井将監忠尚が榊原康政を家康に推挙するシーンがあります。

酒井忠次の叔父、酒井将監忠尚が榊原康政を家康に引き合わせる場面です。

「徳川四天王」の56ページあるのですが映画を見ているような感じに表現されています。

家康が桶狭間の合戦に向かう途中の岡崎でのことですが、小説とはいえ当たらずとも遠からずなのだろうと思っています。

それが違うという確証がないのでとりあえずそう思っています。

しかし、その酒井将監忠尚が家康が岡崎に戻ってから起こった三河一向一揆で家康を裏切りました。

そのときに家康は酒井将監忠尚のいる上野城を攻めます。

榊原康政は家康の上野城攻めに加わっているので、自分が生まれ育った城と前の主君を攻めることになりました。

東から見た上野城
上野城本丸

そのとき家康は上野城から北東に800メートル離れた隣松寺に本陣を構えています。

鴛鴨松平氏墓所

隣松寺の鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ)の墓所に、榊原康政の祖父清長と父長政の墓所もあります。

榊原清長・長政の墓所

お墓に添えられた卒塔婆には榊原家17代当主の榊原政信氏の名前が見えます。

現在は隣松寺の外になっていますが、当時は広大な境内の中にあったのだろうと思います。

榊原清長・長政の墓所

榊原清長、長政は、幼少より徳川家康に仕え、四天王の名を欲しいままにした館林城主榊原康政の祖父と父にあたる。

榊原氏は、もともと仁木氏の流れであったが、伊勢の国一志郡榊原村に住し、榊原姓を称した。清長の代に三河に移り、上野(上郷町)下村に城を築き、松平親忠の臣となり、仕えた。

明応2年(1493)井田野(岡崎市)の戦いでは、12歳の長政が父と共に活躍したことが記録に残っている。

また長政の妻は、鴛鴨城主松平親康の娘であるが、清長、長政共に生年は不詳。

清長は天文14年(1545)10月8日死去、(一説に天文元年9月10日ともいう。)法名は一公羽金忠大居士。長政は永禄5年(1562)10月19日死去、(一説に9月8日ともいう。)法名は賢孝道誓大居士。その妻共々隣松寺を菩提所とした。

豊田市教育委員会

上野城からの北東の眺め、榊原康正はこの景色を見て育った。
中央が家康が陣を敷いた隣松寺

ツーリズムとよた https://www.tourismtoyota.jp/spots/detail/2175/

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