大久保彦左衛門のお墓参りをした。
大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)
永禄3年-寛永16年(1560-1639)は、江戸時代前期の三河武士です。
そんな大久保彦左衛門は、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代に旗本として仕えました。
それはもう生粋の三河武士です。
当時からたくさんの逸話のある有名な三河武士です。
しかし、世が世であれば、気安く名前を呼んだり
お目通りすることすらできないほど身分の高い方です。
そんな大久保彦左衛門の墓参りをしました。
大久保彦左衛門の墓参りは、港区白金の立行寺と岡崎市の長福寺に行けば誰でもできます
大久保彦左衛門の墓参りは、
東京港区白金の立行寺と岡崎市の長福寺に行けば誰でもできます。
大久保寺とも呼ばれる東京の立行寺にあるお墓は少し窮屈なように見えますが、
一方の生まれ故郷の岡崎市にある長福寺の墓所は、
視界が開けた一等地にあり、大久保一族の墓が威風堂々と並んでいます。
それはまるで甲冑姿のまま大久保一族が整列しているかのような堂々とした姿です。
その中の一基が大久保彦左衛門忠教の墓です。
その中の一基が大久保彦左衛門忠教の墓です。
またほかにも、三河一向一揆の収束するにあたって
家康と一揆方の調停役として双方の間を取り持ったり、
それ以前には広忠公や清康公に仕えて功績のあった
大久保忠俊(1499-1581)(常源、浄源)の墓や、
大久保彦左衛門の父である忠員(ただかず)(1511-1583)の墓もあります。
そして、大久保氏の祖、宇津忠茂(1476-1547)の墓もここにあります。
岡崎市指定文化財
史跡 宇津忠茂墓・大久保忠員墓・大久保忠教墓 三基
大永四年(1524)の松平清康による山中城攻略の殊勲者であり、岡崎開市の功労者といわれる忠茂をはじめ、「三河物語」の作者として、また「天下のご意見番」として講談などで有名な旗本大久保彦左衛門忠教などの大久保家代々の墓所である。
昭和三十七年六月十五日指定
建造物
久世平太夫石宝塔 一基
大久保浄源石宝塔 一基
大久保忠員石宝塔 一基
それぞれ天文十五年(1546)・天文九年(1581)。天文十年(1582)の銘がある。
昭和四十二年九月十四日指定
岡崎市教育委員会
大久保彦左衛門は武辺者一辺倒ではなく、
大久保家の子孫に伝えるために
三河物語という歴史的に貴重な物語(記録)を残しました。
現代においては、徳川家康を描く場合には、
彦左衛門が残した三河物語に発想を得て、
映画や小説、そしてドラマが構成されることは有名です。
大久保氏一門の菩提寺である長福寺の墓所には並居る大久保氏の武将が眠っていますが、
質実剛健で有名な大久保氏らしく、墓所は質素ですが、墓石が大きく堂々として立派です。
それを目の当たりにすると彦左衛門が長福寺に葬れと遺言した気持ちがよくわかります。
また、きっと彦左衛門もそう思っていることでしょうが、
私も同じように、出来ることなら大久保忠隣、忠世、忠佐の墓もここにあってほしいと思ってしまいます。
なんとかならないのでしょうか。
大久保彦左衛門忠教が創建した立行寺にある彦左衛門の墓@港区白金
大久保彦左衛門の墓の隣に一心太助の墓があります。
大久保彦左衛門忠教も含めて大久保一族はみんな岡崎市上和田の生まれです。
岡崎観光文化百選
大久保一族の発祥地
この辺りは、三河譜代の臣として幕末まで続いた大久保一党の屋敷があったところです。
上和田には城址があり、大久保忠教以降、代々の居地でした。家康、秀忠、家光の三代に渡る将軍に仕えた大久保彦左衛門もここで生まれています。
また大久保一族の墓は竜泉寺町の長福寺にあります。
新三河物語は大久保氏の活躍がよく描かれているのでお勧めします。