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寺社と城 徳川家康 歴史

外堀を埋めるとはどんな意味ですか?。難攻不落の大坂城外堀の美しい石垣の眺めと紅葉。@大阪市

外堀を埋めるとは。

大坂の陣で徳川方が使った戦略を伝える言葉です。

400年以上前の大坂の陣での出来事、「外堀を埋める!」。

難攻不落の名城「大阪城」現在の外堀ではなく、もっと広いエリアを囲っていました。

外堀を埋める

日常よく交渉ごとなどで使われている「外堀を埋める」。

大坂の陣での象徴的な出来事を伝える言葉です。

当時とは堀や城の位置、形は違っています。

しかし、実際に来てみると、現在の外堀を越えて城内に攻め入るのは無理です。

大阪城の堀の石垣の上を歩いてみました。

そうすると真田丸をつくった意味も家康が大砲を使った理由がよくわかります。

どんなに大軍が囲んだとしても、攻め入ることは困難です。

堀の外に出て戦うより方法がありません。

こんな見事な外堀が城を守っていたら戦いになりません。

一方で守る秀頼、淀殿もそれだけでは勝つことはできません。

勝つためには城の外に出て敵と戦わなければラチが開きません。

外堀を埋めるとは大坂の陣で徳川方が使った戦略を伝える言葉だ
外堀は城の周りを囲っている現在の外堀ではなく、イラストのような広大なエリアを囲う堀でした。

その打開策として、大阪城外にその出丸(でまる)として砦が構築されました。

有名な真田丸などです。

その真田丸の真田幸村が大活躍したことはもうご存知のとおりです。

100門以上の大砲の砲弾を絶え間なく城内に打ち込むことで家康は勝ちました(大阪冬の陣1614年)。

大阪城は圧倒的な堀と石垣に守られています。

攻めきれないことは明らかです。

そこで徳川家康は、遠くから城内を攻撃するために100門を越える大砲を用意します。

それを使ってで大阪城を砲撃し続けた結果、大阪方が講和に応じて冬の陣が収束します。

当時の最新兵器による飽和攻撃です。

そのときの講和の条件のひとつに、城の外堀を埋める事がありました。

戦国時代は外堀を埋めることは講和の条件としてはよくあることでした

しかし、それは儀礼的であり石垣を少し崩す程度のものとの常識があったようです。

豊臣方もその程度のことと考えていたのでしょう。

しかし徳川方には、知恵者本多正信がいました。

狸ぶりで気の合う?家康と正信の2人は堀を埋めました。

北側の堀を残して城の東西と南の外堀を本気で埋めてしまったのです。

しかし豊臣秀頼と淀殿に家康が突きつけたいくつかの講和条件がありました。

しかしその中の条件である豊臣秀頼の移封を淀殿は受け入れませんでした。

そのことで再び大坂夏の陣(1615年)が始まります。

既に外堀のない大坂城は、徳川軍にあっという間に攻め込まれてしまいます。

たった3日ほどで決着が付いてしまします。

城内で敵方に追われた秀頼と淀殿等は天守閣下の山里丸で自害したのでした。

現在、その場所に碑が建てられています。

秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大阪夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。

それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一角に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

外堀さえ埋めなければという悔いが残ります。

大阪城公園HP https://www.osakacastlepark.jp/?lang=ja

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